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2017.04.25

BB&RでのDemetri Walters MWによるテイスティングセミナー

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▲来日したデメトリ・ウォルターズMW。



 ロンドンの老舗ワインショップ、というか、世界一のワインショップとして知らぬ人なきBB&R本社から、
Demetri Walters氏が来日し、東京のBB&Rオフィスでテイスティング・セミナーを開催。私も彼の話を拝聴することができました。

 


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▲ロンドンのベリー・ブラザーズ・アンド・ラッド本店

 彼は「かつて名声を博していて現在は忘れられがちな産地のワイン」に特別な関心があるそうで、テイスティングに供されたワインは、シェリー、ポート、トカイでした。確かにそれらの産地を知らない人はいませんが、実際日本でそれらが正当に評価されているかというといまひとつかも知れません。

 

 シェリーとポートの問題は、現在主流となっているワインの思想である「テロワールのワイン」として認識されず、むしろスタイルのワインとなっていることのように、個人的には思います。実際、シェリーについて学ぶことといったら、フィノやオロロソといったスタイルの話でしょう。ポートも、LBVやトーニーやコルヘイタといった、これまたスタイルの話。似たようなワインを例に挙げるなら、モーリーやバニュルスやリヴザルトはどうでしょうか。それぞれがどんな土地なのかは皆語りますが、グレナやアンブレといったスタイルの話は相当程度二次的なテーマでしょう。「この土地で、この人が、こう考えるから、このワイナリーではこういった味のフィノに専心する」といったストーリーが見えてくると、ワインファンとしては楽しいのですが。

 

そもそもシェリーとポートはスペインやポルトガルという国の酒なのかという議論があります。それらはイギリスがスペインやポルトガルで造ったイギリスの酒ではないのか、と。実際生産者の多くはイギリスと深い関係がありますしね。たとえば日本の大手服飾メーカーがシャツを中国で造らせるとする。コモディティとしては順当なことです。産地は問わず、それは中国の服ではなく、日本の服としてみなされます。それに似たようなものを感じるのです。反対に、日本酒は日本で造るから日本酒なのであって、同じような味のものを中国雲南省で造ったら我々はそれを日本酒と呼ぶか、ないしそのような発想をよしとするか。コスタリカ製の神棚とか、バングラデシュ製の位牌とか、考えられもしません。つまり、商品には物理的特性と精神的価値があり、前者優位の場合は産地は不問となるし、後者優位の場合は産地が重要です。少なくとも私にとってのワインは、コモディティではありません。ゆえに、物理的特性であるスタイル、タイプの話ばかりの状況に疑問をもつわけです。

 

 

 

 

 

*シェリー

 

 

 私はデメトリさんに、「シェリーがそこまでいいワインだとは思わない。なぜなら余韻が短いからだ。それに比べてマデイラは余韻が長い」。実際、何十年にわたっていつシェリーを飲んでも私は余韻の短さが気になることが多いのは事実です。同じくフロールがついたワインでも、シャトー・シャロンやレトワールのほうが長いものが多いと思います。それに対して、バローロ、シノン、シャブリ、トロ、サントリーニ、ツィナンダリといったワイン(例を挙げていればキリがない)で余韻が短いと思ったことはほとんどありません。彼は、「余韻が長いシェリーもある。例えば」と、彼が飲んだ大昔に作られた伝説的ワインや、優れた生産者が特別に作ったワインの例を挙げました。彼の立場からして、彼にとってのシェリーはそういうものでしょう。「そういう実際に売っていないものの話ではなく、平均として、です。私は実際昨日シェリーのテイスティングに行って、50種類以上飲みましたが、余韻が長いと思ったのは2,3本です」と言うと、「マデイラのほうが3倍ぐらいの値段だ。シェリーは品質に比べて安い」。確かにそうです。シェリーの「不当な安さ」はどれほど大きな声で主張しても足りないぐらいの事実ですが、私の論点は、シェリーがそこまで偉大な産地だと言うなら、過半数のワインが余韻が長くてしかるべきなのに、実際はそうではない、ということです。安くてうまい、というなら、やはりそれはコモディティです。

 

シェリーファンというのは、ワインファンとは違う。シェリーの評価基準は他のすべてのワインの評価基準とは違う。だから他との比較は無意味である。こういうふうに言われるかも知れません。だから余韻が短いというのは問題ではないと。ないし、こうも言われるでしょう。余韻が短いと言っている人はどこにいるか。お前ぐらいだろう。そもそもお前が余韻が短いと言っていることが事実であり、実際のワインと個人の感覚が対応関係にあると、どうやって証明するのか。それはその通りです。まるでヴィトゲンシュタインの言語哲学的議論になってしまいます。それでも短いものは短いとしか、私は言えません。

 

しかし話はそれで終わりではありません。彼は、「ロンドンでも他の国の大都市でもいまはシェリー・バーが大流行」だと言います。それも事実です。そしてそういったシェリー・バーで飲まれているのは、私が試飲会などで飲むようなレベルの普通のシェリーではなく、上質のもののようです。つまり、コモディティとしてのシェリーの市場は大幅に縮小しているが、上級ワインの市場は拡大している、ということです。この傾向の先には、当然ながら、テロワールのワインとしてのシェリーがあるはず。なぜならワインである以上は、最上の土地で、そこにふさわしい形の優れた栽培と醸造をしなければ優れたワインはできないからです。さらに、シェリーの市場を見るなら、おもしろいことが分かります。以下のグラフを見てください。

 

 

Photo

 

 

出典 The Drink Business 

 

 

 

 

 

 確かにシェリーは2009年まではイギリスの酒だったのですが、それ以降、すべてのメジャー市場で販売を落としている中、唯一、生産国であるスペインだけでは堅調(それでも低下傾向にあるとはいえ)であり、いまやシェリーはスペインの酒になっているという事実が分かります。これはいいことです。このままの傾向が続けばますますそうなります。シェリーが第一義的に「スペイン人が飲む酒」になってこそ、シェリーはスペインのワインになれます。私はイギリスで高く評価された日本酒をいくつか飲んだ時、正直、これは日本酒本来の味にあらず、と思いました。もし、日本酒が日本で飲まれなくなり、主にイギリスで飲まれる酒になったら、当然日本酒は彼等の嗜好、彼等の料理に合うものになるでしょう。今までのシェリーはそうだったのかも知れません。だから、高級なテロワールワインとしてのシェリーは、いまやっと端緒についたばかりなのでしょう。そう考えたら、俄然シェリーに対する興味も湧いてきました。「余韻の長いシェリーをBB&Rで売っていますか」と聞くと、「もちろん」。次にロンドンに行く機会があったら買ってみたいと思います。

 

 

 

 

 

*ポート

 

 

 ポートといえばイギリスジェントルマンのたしなみでしょう。ポートは甘口なだけに、辛口が圧倒的な主流となっている現代においてはシェリーとは比較にならないほど将来性が見えない存在だと思います。いったいどれほどの人がポートを飲むのか。美味しいワインだとは思いますが、ヴィンテージやコルヘイタは相当高価ですしね。今回のセミナーで出された20年のトーニーも、酸化熟成風味が好きな人にはこたえられないものがあります。

 

 気になっていたことがあったので、デメトリさんに聞いてみました。

 

「以前ドウロのポートワイン生産者に聞いて驚いたことは、酒精強化のためのアルコールがドウロ産ではなく、ポルトガル産でもないことです。どこのブドウかと聞いたら、主にイタリアだと。そしてそのアルコールは政府が管轄するもので、各生産者が造ることができない、と。ありえない話だと思いました」。

 

「そう、アルコールの原料はEU内ならどこでもいい」。

 

「VDNのようにほぼ純粋なアルコールを使うなら、その原料の味はあまり感じられないからまだいいとも言えます。しかしポートはそうではない」。

 

「77%のアルコールだから」。

 

「そう、そこが問題なんです。その程度の低い蒸留度ではもちろんブドウの味が残ります。ポートはドウロ産のブドウで造ったアルコールを添加するのでなければ、アペラシオンのワインとしての筋が通らない」。

 

「しかしポートは樽風味があり、その樽はドウロ産ではない。どこまでを原産地のしばりの中に含めるかは程度問題だ」。

 

「ワインである以上はブドウは原産地の中に含まれるべきだと個人的には思います。この議論は生産者のあいだで、ないし関係者のあいだで議題になっているのでしょうか」。

 

「それは皆で議論はしている」。

 

「さらに言うなら、なぜ77%なのか」。

 

「それが伝統だから」。

 

「77%のせいで、ポートワインは、ワインプラスアルコールの味がする。蒸留度の低いアルコールから来る種の青い苦みが気になってしかたない」。

 

「それはそうだ。それがなければポートではない」。

 

 皆さんもポートを飲めば一発で分かることでしょうけれど、明らかに出自・性格が異なるふたつの味がぶつかり合っている。つまりドウロ産のトゥーリガ・ナシオナルやティンタ・ロリスといったブドウと、イタリアのサンジョベーゼだかバルベーラだか分からない何かのブドウ。これについては、「倫理的におかしい」or「倫理的に正しい」、「味的におかしい」or「味的に正しい」のどちらの論を立てても、それなりの論理性は示せるはずです。ただ私は、本当のポートはこんなものではないはず、ワインと同じブドウを用いて生産者自らがアルコールを作ればもっとおいしくなるはず、と思っています。

 

 この観点からして、私はふたつのタイプのポートが好きです。それは若いヴィンテージポートと、コルヘイタ、です。前者はぶつかいあいの乱暴さ、ある意味ラグビー的な魅力です。後者は酸化熟成によって余計な力が抜け落ちてピュアさが出てくるからです。

 

 

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▲左からトカイ、シェリー・オロロソ、トーニー・ポート。

*トカイ

 

 トカイは歴史的に最も偉大なワインのひとつです。その名声の割には現在マイナーな存在になってしまっているのが残念、という視点からは、確かにトカイはかわいそう。甘口ワインは本当に大変です。このような機会にトカイを取り上げるのはいいことです。

 

テイスティングに出されたワインは、5プットニョスのさらっと軽やかで酸がすっきり伸びる、フルミント単一品種のタイプ。他の多くの産地の貴腐ワインのスタイルに似ているバランスです。トカイを知らない人でも、普通においしいと思えるでしょう。

 

 2008年ですから当然繊細で酸は高い。オレムスですから土壌は火山性だけではなく、レスもあれば「石灰岩もある」。これを選んだのがいかにもイギリス人だと思いました。私個人は、もっと暑い年の、火山性土壌の、フルミント単一ではない、もりもりとしたデーモニッシュなパワーが感じられる、エレガントの一言では片づけられない陰影の濃い味のトカ・アスー・6プットニョスが好きです。それがハンガリーっぽいと思えます。彼の出したワインは、ハンガリーというよりオーストリア的です。

 

 デメトリさんに言いました、

 

 「いかにもイギリス人好みのすっきり垂直的な味のトカイでした。しかしこういうトカイばかりになると、個人的にはトカイらしさが失われるようになると思います。ハルシュレヴェリュは入れるべきだと思うし」。

 

 「ハルシュレヴェリュは酸がないし、重要ではないだろう」。

 

 「単体で飲んだらフルミントの酸やミネラルはいいに決まっていますがね」。

 

 フルミントとハルシュレヴェリュはソーヴィニヨンとセミヨンみたいなもので、正しく使えば1+1が3になると思います。いずれにせよ、フルミント単一では陰影感や幅や色気が出にくいと思います。ハルシュレヴェリュだけではなく、マスカットもちょっと入れて欲しい。ソーテルヌにミュスカデルをちょっと入れて欲しいようなもので。そこらへん日本ではどういう議論がワイン専門家のあいだでなされているのかと気になります。最近フルミント単一トカイ・アス―をよく見かけますが、それが正しいと思われているでしょうか。

 

 「セプシーのところにアスーではない甘口がありますよね、名前忘れました」。

 

 「レイト・ハーヴェスト。あれは大好きなワインだ」。

 

 「ええ、あなたはそう言うでしょうね。私はあれが嫌いなんですよ。淡々としていてつまらない。トカイらしくない。セプシーさんの家で何時間もこの議論はしたことがあります。彼は国際市場に受容されるためには必要だし、皆が求めるワインのスタイルだと言っていましたが」。

 

 私はワインの平準化傾向が嫌いなのです。

 

 1970年代や80年代ヴィンテージの、社会主義時代のトカイは今より果皮のタンニンが目立っていて、さらに酸化気味でしたから、苦みがありました。現在の政治体制になってからのものでも、旧国営醸造所のワインはその傾向があったと記憶しています。ところがおもしろいもので、その、ある意味粗末なワイン(サモロドニ・セックでしたが)が、現代的なクリーンなワインより、トカイの畑の前を流れるどよーんと濁った川で釣れた鯉のぶつ切りの煮込みに対してずっと合っていたという経験があります。目の前には鯉とナマズがいて、それを食べるわけですから、地元ワインとしては、それに合うワインが正しいワインであるという言い方もできます。この視点を失うと、よくできていて品評会では高得点を取るが役に立たない、土地との接点の薄い、抽象的なグローバルワインばかりになると思います。

 

 ちなみにハンガリーが社会主義国となる以前に造られた19世紀や20世紀初頭のトカイ・エッセンシアは、「ピュアで酸化しておらず、20年ぐらいしか熟成していないような味だった」そうです。エッセンシアはある意味、異常なワインです。残糖600グラムとかですから、常識的なバランスではありません。だから、この世ならざる凄みを感じさせて、世界最高のワインのひとつと言われるのでしょう。頂点に立つエッセンシアが異常なワインなら、その下にあるアスーにも、その美しい異常さ、凄みのあるアンバランスの片鱗を求めたくなるのはおかしいでしょうか。

 

 

 

 さて、デメトリさんのセミナーの冒頭で、「ワインは好き嫌いではなく、客観的な質を判断しなければならない」と言われていました。客観的な質とは何か。これこそ巨大な議論を呼ぶところです。個人の感覚器官でテイスティングしているのに、どうやって客観的と言うのか。例えば誰かが「私は客観的な質が判断でき、あなたはできない」と言うとして、それをどういう根拠、論理で証明するのか。ワインは客観的な質で選択されるのではなく、好き嫌いで選択される嗜好品なのだから、好き嫌いの論理を突き詰めたほうが有用性があるのではないか。等々、まあ、いろいろな議題を立てることができるでしょう。

 

 もちろん私はワインに客観的な質が存在しているとは思っていません。ただし、私は、客観的な質だと思われているもの(ないし、思い込まされているもの)が存在していると思います。ワイン教育がそのイデオロギーの刷り込みだとすれば、誰かがどこかでちょっと待てと言わねば、そのイデオロギーで得をする人たちが消費者を犠牲にしてほくそ笑むだけになってしまう可能性があります。

 

 こういった議論を私はデメトリさんと延々としたあと、こう聞きました。「ここらへんで議論を切り上げるとして、あなたの考えを要約するなら、ようするに、より欠陥がないものが客観的によい質のものである、ということですね」。彼は2、3秒考えたあと、「そうだ」と。

 

 これまた新たな議論を呼ぶところです。「より欠陥がない絵が、客観的によい絵である」と言ったら、ゴッホとかゴミみたいなものだとも言えるでしょう。しかし「より欠陥がないネジは、客観的によいネジである」と言ったら、それはそうでしょう。ワインは絵の仲間なのか、ネジの仲間なのか。コモディティ―の質を規定するのは簡単ですが、嗜好品・芸術品はそんなに簡単ではありません。

 

 それにしてもデメトリさんはさすがで、聞いたことには即答です。いろいろなデータが頭の中に入っていて、話が論理的です。だから話をしていてものすごく勉強になりましたし、とても楽しかった。ワイン談義はなんであれ楽しいですが、こういう方との談義ほど楽しいものはありません。このような機会を設けてくださったBB&Rさんには感謝です。BB&Rではいろいろなセミナーを開催しているようですから、皆さんも是非参加していろいろと議論してみてください。

 

 

 

 

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