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2017.04.06

スペイン、リオハ0 いまリオハを飲むということ

 力を抜くこと。その前には、正しく力が入っていること。それがリオハだ。

 力がもともとないものから力を抜いたら、飲みやすいかも知れないが感動はしない。力を入れたまま固まってしまったら、印象には残るかも知れないが疲れる。それはワインだけには限らない。

 がんばっています!の自己主張は聞いていてつらい。しかしがんばりの押し売り的宣伝文句が、最近のワイン市場で、目立ってはいないか。がんばることじたいはよいことなのだから、なんびともそれを否定できない。がんばっていてがんばっていると言えば、誰でも理解できる。おのずとそういう言葉が氾濫する。

 がんばっていないでがんばっていないと言うのは恥ずかしい。言う必要もない。がんばっていないのにがんばっていますと言うのは後ろ指さされる。罪とさえ言える。がんばっているのにがんばっていないと言うのは、、、、これが問題だ。それを謙遜の美徳と考えるためには、言葉の背後にある事実を推し量らねばならない。だからそういったワインを楽しめるようになるには、言葉の背後が存在しているということ自体を知る経験が必要になってくる。不言実行型ワインと有言実行型ワインがあるとすれば、リオハは明らかに不言実行型だ。言われなくとも分かる人が飲むワインだ。

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 さて「力」や、その力を生み出す作用の強度である「がんばり」は、人に関してのみ該当するのではなく、テロワールにも該当する。よいテロワールはワインに対してがんばり、結果としてのワインは大きな力をもつ。そのがんばりがそのまま表出してしまうと、「ああ、ようございました」とか、「はいはい、あんたはエラい」といった反応が往々にしてふさわしい、ないし、そう言ってはいけないことを知りつつ内心で悪魔がそうささやく、偉そうなワインになる。左うちわのグラン・ヴァンである。それはそれでいい。偉いものは偉い。歴代国王の肖像画を鑑賞するようなものだ。だが、豹皮のマントや金モールで「えらさ」をこれでもかと盛り立てる肖像画を見て、少なくとも私は感動はしない。わが国の国宝である源頼朝(最近では足利直義説もあるが)の肖像画を見て感動するのは、何も盛り立てていないからだ。記憶に鮮明な1970年代までしかリアリティをもって遡ることはできないにせよ、往年のボルドー1級やブルゴーニュのグラン・クリュは、ルイ14世より源頼朝の肖像画に近い、偉いのだが俺は偉いと主張しまくらない不言実行性と節度があった。ロールスロイスやアストンマーチンに乗らずとも、1991年製ホンダ・インテグラに乗っておられても、かのお方の偉さは誰もが知る。その美しさが、今どれだけのグラン・ヴァンにあるか。

 リオハは、このような問題意識に基づいて飲む時、グラン・ヴァンであることを主張しないグラン・ヴァンとして、いまや稀有な存在であると理解できる。私は、そのことが分かるようになるまで、相当な時間がかかった。

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 なにゆえにリオハ(ここでは赤ワインのみを扱う)はそういった稀有なキャラクターなのか。それをこれから考えていきたい。

 まず言っておきたいが、リオハならばなんでもいいわけではない。リオハはエブロ川の両側、長さ100キロ、幅40キロに広がる、63593ヘクタールもの巨大産地だ。温暖で乾燥(年間300ミリ台)している東部のリオハ・バハは、ワインとして悪いわけではないが、ここで言っているような引きの美学をあまり感じさず、グラン・ヴァンには不可欠な気品のある酸と緻密なタンニンに欠けるから、まず除外する。昔から言われているように、比較的湿潤(年間400ミリ台から500ミリ)で冷涼な西部のリオハ・アルタと北部のリオハ・アラヴェサは、やはり品格が高い。この中でリオハ・アルタはコート・ド・ボーヌ的寛大さ、リオハ・アラヴェサはコート・ド・ニュイ的繊細さが特徴となるだろう。

 その上で、昔から続く伝統的生産者のグラン・レゼルバを選ぶ。彼らのほとんどは広大な自社畑を所有しており、最上の畑のみからグラン・レゼルバが、良年にのみ造られる。どの畑のワインを買っていいかわからない、どのヴィンテージを買っていいかわからない、という状況が常態化している中で、これはグランメゾンのシャンパーニュのプレステージ・キュヴェと並んで分かりやすい話だ。グラン・レゼルバとは、規定上は5年以上熟成され、そのうち2年は樽熟成されるワインであるが、それはすなわち、熟成されるべき内容の、熟成してよくなる優れた畑のワインである。マニアにはこれが予定調和すぎておもしろくないとしても、万人が理解できるというのは、そして想定どおりの高品質なワインが得られるというのは、世の中にとっては重要なことだ。

 このグラン・レゼルバというコンセプトがよい。それは、畑別ワインでは、基本的に、ない。ひとつの畑からのみできるとしても、世界じゅうで全盛の、「テロワールを重視し、畑ひとつづつの個性を伝えることがワイン生産者の仕事だ」という発想に立つワインとは言えない。偏った味わいを生み出す畑があるとして、その偏った味わいをそのまま「これが畑の個性なのだから、あれこれ言わずに飲め」と言われても困るのではないか。そもそもテロワールの重視と単一畑ワインは、イコールではない。そこには優れたワイン、おいしいワインを造るという基本スタンス(消費者に対する責任とさえ言える)が希薄だ。

 グラン・レゼルバは、リオハというテロワールの本質を俯瞰的・総合的に表現するものであって、行政上の土地登録名や自分で勝手に区分した特定の場所を微視的に表現するものではないという意味で、やはりグランメゾンのシャンパーニュと類似する。つまり、前のめり一辺倒のがんばりましたワインではなく、一歩退いて全体を見ているワインなのであり、まさにプレステージ・シャンパーニュと同じく、おとし所をわきまえている安心感と包容力のワインなのである。

 リオハの主要ブドウ品種は言うまでもなくテンプラニーリョである。今や世界的に最重要品種のひとつとなったテンプラニーリョは、リオハが生まれ故郷という説もある。この品種は、カベルネ・ソーヴィニヨンのように堅牢でもなければ、ピノ・ノワールのように華麗でもない。タンニンと酸はやさしく、色は薄く、香りも比較的地味で、ゆったりとした温和な味わいだ。リオハの土地は、特に西側の降水量の多いエリアは、この個性をさらに強める。フッと隙間に入ってくるような気配の穏やかさや当たりの柔らかさ。割り込んできて主張するのではなく、しみ込んできてうしろから支えるような、やさしい強さ。リオハのグラン・レゼルバにはそれがある。だから、泣ける。

 しかしリオハはソフト型品種のテンプラニーリョだけではなく、タンニンと酸の強いハード型品種のマズエロやグラシアーノも1割から2割程度ブレンドされる。時にボリュームをもたらすガルナッチャもブレンドされる。だからリオハは一本調子な味わいではなく、シャンパーニュやボルドーと同じく、あえてフォーカスをひとつに絞らない多面性・複雑性を備えている。また、ハード型品種がリオハに芯の強さ、心地よい緊張感、気品の側面を加える。それがリオハの包容力をさらに増す。

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 そして、長い熟成。先にリオハ・グラン・レゼルバは最低5年熟成、うち樽熟成2年と言ったが、現実には今売れられているグラン・レゼルバは2004年や2006年や2007年なのだから、十年以上も熟成させられている。そもそもクリアンサ以上のリオハはどれも樽熟成されねばならないという点で、リオハと樽熟成は切っても切れない関係にある。熟成とは酸化とうらはらのエントロピー増大過程であると、すなわち死への道であるとも捉えられる。死への道を歩む中で、死とは反対の力が立ち現れてくるところに、熟成の奇蹟がある。そこに、同じく死への道を歩むしかないはかない生命体である我々に、感動を与える理由がある。

 古典リオハで使われる樽は、アメリカンオークが多い。アメリカンオークといえば、世界的には不人気であり、青臭い、エグい、過剰に甘い香りがする、タンニンが粗い、ワインとなじまない、等々、悪口を言われる対象になりやすい。私も多くの場合は批判的だ。そしてリオハでもクリアンサのように1年しか樽熟成されない場合は、アニスっぽさやゴリゴリ感や刺激的なスパイス感等、アメリカンオークのいやな側面が目立ち、あまり好きになれない。しかし長い樽熟成がなされるグラン・レゼルバになると、アニスシードやクローヴっぽい刺激感がナツメグ的なおだやかで魅惑的な風味に変化するように思える。そして若いうちの過剰なタンニンがワインに溶け込み、生命力をサポートする役目となる。さらにはセクシーと言ってもいいほどの甘さが出てくる。死への道が甘美さを伴うとしたら、なおさら陶酔的ではないか!

 ゆえに古典リオハには、孔子のかの有名な次の言葉がふさわしい。子曰、「吾十有五而志于学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲、不踰矩」。

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