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2017.06.14

ニュージーランドワイン試飲会

 大盛況。ニュージーランドワインの絶大な人気に感心しました。

 

ニュージーランドワインの大きな美点は、補酸しないことです。あるニュージーランドの生産者に、「ニュージーランドでは補酸するのですか」と聞いたら、「知る限り皆していない」。「それはオーストラリアと比べて優位点ですね。オーストラリアは補酸が大半ですから」。「へえー、そうなんだ、知らなかった」。意識することなく補酸しないで済むというのはいい話です。西オーストラリアで「へえー、よそでは接ぎ木するんだ」と言っていた人も、うらやましいな、と思いましたが。新世界ワインで補酸していないほうが少数派でしょうから、新世界ワインが好きで酸の質にこだわるならあまりチョイスがないのは事実です。オーストラリアやカリフォルニアの多くの産地もニュージーランドを見習って補酸しないでほしいです。自然な低い酸のほうが不自然な高い酸より百倍いい。

 

ニュージーランドの自然な酸のフレッシュ感、果実味のクリーンさ、香りの直線的な伸びやかさ、タンニンの緊密さは素晴らしいものです。適度なエッジ感がもたらすアルデンテの蒸し野菜的なリズムの刻み方もきびきびしていいですね。ニュージーランドも広いので十把一絡げの単純化は危険だとはいえ、試飲会で相当数のワインを飲んでの共通分母としてのそのような感想をもちました。それは以前と変わることがありません。

 

今回の試飲会で全体に印象がよかった品種は、シラーです。ニュージーランドも温暖化しているようです。南オーストラリアではシラーズよりグルナッシュのほうがいいのではないかと思うことがままありますが、ニュージーランドでも今までの冷涼系品種よりもシラーのほうに向く産地が増えてきたのでしょう。さらにシラーの場合、品種のノリと自然の要因が合っている感覚があります。


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とはいえ、私個人はニュージーランドワインをそれほど積極的に探究したいと思ったことがないのです。いくつかの大傑作を飲んだことはあるとはいえ、偶然このような会を知って参加する以外にはテイスティングする機会がほとんどないので、本当のすごさを知らないだけなのでしょう。試飲会の前にはセミナーがあったようですが、私は例によってご案内をいただいていないので、勉強する機会が限られます(弁解にはなりませんが。しかし全世界全産地をある程度理解できるようになるために何十回も行って自分で勉強するには何百年もかかってしまいます。他に何もしないとしても、です。ワインの勉強は大変です)。そもそもニュージーランドに行ったことがない日本で唯一のワインジャーナリストだと思いますし、実際に訪問してみると考えが変わったりするのは普通のことです。

 

それでも現時点での私の感想は、客観的には評価できても感覚的にはのめりこめない、です。会場でワインジャーナリストの方が私にどう思うか聞いてきたので、「イヤラシさ、ヤバさがなくてねえ。僕はいい子じゃないから、こういう優等生とはノリが合わないんだよな」と言いました。確かに客観的に見れば完成度が高い。技術力は否定しようもない。もちろんまずいわけでもない。

 

 しかしそれでもどこか醒めている。ワインとの距離感が縮まらない。もどかしい。感情的な移入ができない、写真の中の、見知らぬ美男美女のモデル。

 

どうしてそう思うのか、もう少し考えてみると、以下のような理由を挙げられます。特にピノ・ノワールに該当することです。

 

1、表層性。口当たりのよいかっこよさ。しかしその背後に何があるのかがわからない。

 

2、平面性。つまり味わいの立体感の欠如。味わいの広がりが平面的で、多くの場合重心が上で水平的で、前後がない。これは客観的にそうです。自分にとっては大問題です。特に下方垂直性の欠如が気になってしかたありません。ニュージーランドでは自根がほとんどないので、なおかつ灌漑が多いので、この点に関しては不利だとはいえ。

 

3、単純性。決定的にダークサイドが欠けた味。なんだこりゃ、とか、うーむ、とか、なんと言ったらいいかわからないがなんかすごい、といった言葉が出てこない。ヘン、とか、狂ってる、とかの、ただの絵と芸術作品のあいだに横たわる何ものかがない。

 

4、要素分解性。ひとつひとつの要素は素晴らしいのですが、1プラス1が2でしかない。まるで、よくあるテイスティング評価指標のひとつひとつの点数をしっかり上げていって作ったみたいな、よくできたエンジニアリング。

 

5、実体性。実体的な味の部分はしっかりしているのですが、なんともいいがたい気配感(それが妄想をかきたてる大きな要因なはず)といったものがなく、よって、味の部分と味ではない部分のあいだに明確な境界線が引かれてしまう。

 

6、小ささ。これも客観的にそうです。味が小さいから、ワインに包まれている感覚よりも、ワインを見つめて分析する意識が上回る。

 

 

 

一般的なテイスティングメソッドに従って、酸やタンニンや黒スグリの香りと言うなら、ニュージーランドはどれも優れたワインです。ワインコンテストでも、欠陥が少ないためにおしなべて高得点を獲得できます。確実な銀賞ワイン、という印象です。だから私の意見と世界じゅうの大多数の人の意見の差異の原因は、ワインに何を期待するかという思想と、ワインをどう把握しどう表現しどう評価するかというテイスティング方法に由来する部分も大なのかとは思います。

 

だいたい世界中ニュージーランド賛美の嵐だと、あまのじゃくな私としては違うことが言いたくなってしまいます。たまには違うことを言う人も、ワイン全体主義を防ぐためには必要かと。人が白と言っている時に自分も白と言っていれば一応その場は丸くおさまりますし、敵も作らないでしょう。しかしそのふたりのあいだに本当の関係が成立するか。自分にとってそれが黒く見えるなら、黒と言わないといけない。趣味の対象なのですから、個人主観性の徹底は基本です。そのあとなぜそう思うのかを議論し、相互に理解しなければいけない。ワインはまたコミュニケーション手段ですから。

 

ワインに対する意見・感想は、価値判断と切り離せないもの。ひとりひとりの立ち位置を明確にして、これはこうこうの理由でいい、これはこうこうの理由でよくない、と表現しなければ、発言者の意図や思想と言表のあいだの連関が不明瞭になってしまいます。「95点取ったからいいワイン」みたいなワイン理解では意味がありません。しかし、あるワインに対して喧々諤々の議論をしているのを日本では見聞きしたことがない。それができない理由はふたつ考えられます。ひとつは、喧々諤々の議論をするほどの意見もなければ愛情もない。もうひとつは、真実の探求より「政治」が上回る。しかしそれでは最高の趣味としてのワインという前提的了解とは矛盾する。これはニュージーランドとは直接関係ない話で、一般論ですけれど。

 

ああ、そうだ、余談ですが、来年はオーストリアワイン大使コンテストがあります。コンテストの最後に口頭試問があります。そこで問うべきは、まさに「喧々諤々の議論をするほどの意見と愛情」ですね。アイデアを出して再来週ウィーンでオーストリア側に提案してみましょう。

 

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