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2017.08.12

ジャパン・ワイン・チャレンジの事前セミナー

 ジャパン・ワイン・チャレンジ関連イベントのひとつとして、ワイン業界関係者との意見交換会、ヴァリュー・シェアリング・セッションと上級審査員の方々向けのテイスティングセミナーが、お台場のヒルトンホテルでまる一日かけて開催されました。 

 いったいどのような議論をもとに何を尺度としてテイスティングしているのかを開示し、皆さんの意見を聞きながら精度を上げ、また制度的な完成度を高めていくのは重要なことです。人が集まってブラインドテイスティングすればいいというものではなく、有名な人がやれば信頼性が高まるものでもありません。別々の尺度で別々の言葉で話していても議論にはならず、議論のないところに民主主義はありません。その「理」を具現化する努力は、なんらかの形でしていかねばいけないと思います。

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▲クリストフ・マーティンさん。33歳とお若いですが、当然のことながら大変な知識の持ち主です。



講師はこのために来日したWSETの国際教育担当のクリストフ・マーティンさんです。業界の方向けはWSETレベル2、上級審査員向けはWSETレベル4のメソッドに従っていろいろなワインをテイスティングしました。その方法は一般的に流布しているものと本質的に大差がないですし、ご存知の方も多いですし、そもそもWSETを受講したことがない私が説明するのはおかしな話ですから省略します。それはワインのディスクリプションとしては基本となる優れたものです。

論点としたい点は、アピアランス、ノーズ、パレットという観察の記述を重ねても、論理的にコンクルージョン(つまり、品質レベル)は直接導かれない、という問題です。むしろコンクルージョンは、それに先行するとされる3つの項目を考慮せずとも一気に得られる。前夜に新橋の焼き鳥屋でマーティンさんと話していたことですが、ノーズのインテンシティがプロナウンスドでボディがフルなほうがいいなら、アルザスのゲヴルツトラミネールのほうがラ・コートのシャスラーより常に品質が上のワインになってしまう。欠陥ワインを除くなら、品質とは、フィネスであり、バランスであり、エネルギー感であり、美しさといった要素の総体から総合的感覚的直観的に把握されるはずです。そうであるなら、システマティック・アプローチは、物理的観察項目群(酸化していないか、とか)と、感覚的精神的観察項目群(フィネスがあるか、とか)に分けるべきであって、前者の帰結として後者の結論が得られるわけではない。では感覚的精神的観察項目群の評価方法を誰がどうやって教えることができるのか。これは難しい。つまるところ個々人の素養と経験と努力の問題になってしまいます。

私は講師ではなくあくまで参加者のひとりなので、私としてはおとなしくしていましたが、いくつかのおもしろい議論をしたので、ふたつの例を挙げましょう。

ひとつは、レベル4の時の題材だった、あるカリフォルニアのシャルドネ(完全ブラインドですからそれが分かっていたわけではありません)についてです。マーティンさんはヴェリー・グッドからアウトスタンディングというコンクルージョンでした。「田中さん、どう思いますか。クイックに答えてください」とふられました。私は「クイックには答えられません、ものすごく長くなりますから覚悟していてください」と言って、それがグッドでしかない理由を延々と説明しました。

再現していると長大な文章になるのでやめますが、「これはシャルドネを植えるべきではない土地のシャルドネワインの味だ」というのが私の基本的な主張です。高いアルコール、トロピカルな果実味、酒石酸の低さ、過剰な乳酸、苦み、単純さ、構造の緩さ、収量の多さ、そして補酸味の組み合わせ。どう考えても暑くて乾燥している土地で農薬を使って灌漑して補酸した、外が大きく中が弱く樽でメリハリをつけ余韻を補酸の酸味で引っ張る、よくあるタイプのシャルドネ。聞き終えたマーティンさんは、「その答えはディプロマの試験で100点ですね。技術的にはフォールティではないが、違う意味ではフォールティ」と言うので、「ならばそんなワインになぜアウトスタンディングという最高評価をあなたはつけるのか。醸造技術的に瑕疵がなければそれでいいのか。このワインには背骨が通っていない。気高さ、好ましい禁欲性、自己抑制による内面の充実といったイギリス的精神の美点を感じないワインにイギリス人であるあなたがそんな評価を与えたら、ネルソン提督が墓の中で泣きます」。それがイギリス精神に適合するか、しないならなぜそれをイギリス人がよしとするのか、といった論点を取り上げたのは、コンクルージョンを導くためには価値判断という精神作用が必要なのであり、個々人の精神は無意識であれ生まれ育った国、文化と結びついているからです。これに関しては、スティーヴン・スパリエは見事にぶれなく、イギリス的精神を感じるワインに高得点を与えていたな、と思い出します。しかしイギリス的=ワールドスタンダードだと思われては困る。だとすれば、自らのイギリス性と評価に対するその反映を自覚するほうがいいということです。

しかし大事な点はそこではない。私はイギリス人ではないし、日本人の審査員に向けて話をしているのですから、間接的に、「ではあなた方の日本性とは何か。日本で日本人がワインを評価する時にどのような感覚的精神的観察項目を立てればよく、それをどのように評点化すればいいのか」という問いかけをしていたつもりです。何度も言いますが、それはシャルドネの外観を見てイエロー・ゴールドというディスクリプションを与えて正解と言われることからは導かれません。

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▲マーティンさんのセミナーでブラインドで出されたワインのいくつか。左から二番目のACボルドーは見事に古典的で上品な味わい。後で調べて1200円という価格に驚きました。ボルドー恐るべし。参加者の方も「これは買おう」と言っていました。私もさきほど輸入元のネット販売でしっかり3本購入。家庭の肉料理にはこれでじゅうぶんです。



 もうひとつ興味深かった議論は、レベル2の時のテイスティングで、ある赤ワインが出てきたときです。もちろんそれもブラインドだったのですが、どのような香りですか、と質問されたので、「たばことペンシル・シェイヴィングの古典的ボルドーの香り」と。途中は飛ばして、マーティンさんの結論は中程度の品質のワインということでしたが、私はこれはゴールドだと。垂直性、緻密さ、形の美しさ、香りの古典的優雅さ、タンニンの心地よい硬質さ、丸みがあって力強い酸の質、余韻のきれいさは、ミディアム・ボディで余韻は中程度だとしても傑出していたからです。私はこう言いました、「このワインを飲むと、1970年代のボルドーを思い出させる。つまり、適度に力の抜けた、やりすぎないエレガンスの、しかし芯がしっかりとして直情的快楽的方向に向かわない節度のある味。現在の格付けシャトーよりずっと古典的なボルドー。ボルドーでしか表現されない美点のあるボルドー。グローバリズムの味、90年代右岸ワイン的方向性へのアンチテーゼとして、こういうワインを高く評価したい」。この場合、物理的観察からコンクルージョンへと至るまでに、ボルドーらしさとは何か、今ボルドーを飲むという意味はなにか、本来ワインはどうあるべきか、古典とは何か、現代の問題点とは何か、我々が提示すべき価値観は何か、等々の問いとそれに対する答えの集積があるわけです。それを3秒でまとめてゴールドの理由として論理的に説得力のあるコメントとして言わねばなりません。私とマーティンさんは、こうした議論を通して、ジャパン・ワイン・チャレンジでの審査プロセスを伝えたつもりです。

しかしほとんどの方はそういう形ではコメントして下さいません。日本でこういったコンクールの審査をしている方々は基本的に私より知識経験能力が優れている方々なのは存じ上げています。それでも本来の力が発揮できなくなるとすれば、その理由は、今までの経験からして、次のふたつです。

ひとつは、日本人らしく、他人を傷つけないことを最大の目的として行動することです。ですから他人の点数と大差ない議論しようのない点数を、周囲の顔色を見ながら探り、誰もがどのワインに対しても中間的な点数をつけるように、それより上の人は下げ、それより下の人は上げ、と各人が調整していくという事態です。しかし日本人らしさは、そこではなく、当該ワインが日本的美意識に適合するかどうかを見定めることに発揮していただきたいと思っています。この日本的事態を避けるために昨年度からとった方法は、各人の結論を出す前の会話禁止、テイスティングシートの点数のところを書き直せないようにする、です。議論は各人の差異の生じる理由の追求に費やされるべきであって、差異を最小化する腹のさぐりあいに費やされてはいけません。おかげでずっとよい結果が出るようになりました。

もうひとつは、英語力です。これまた皆できる人ばかりなのですが、それでもまともな議論になかなかならないのは、まず、英語以前の日本語段階での論理構成が弱いからです。日本語は雰囲気でなんとかなりますし、日本人は以心伝心のマスターですから、論理構成をしないでしゃべれるのです。しかし英語はそうはいきません。こればかりは訓練です。そして真面目な日本人らしく、完全な英語をしゃべらなければいけないという強迫観念があるからです。「仮定法過去の場合は、えーと、would have been」、みたいなことに気をとられ、「何も言わなければ間違いもしない」、と思うのは、完全に本末転倒です。これはほんとにもったいないことだと毎回思います。私がいつも恥をさらしながらやっている通り、まともな英語力でなくとも、何も言わないよりは言ったほうがましなのです。そして「まし」とは、民主的な議論を通じてより真理に近づく可能性が高くなる、という意味です。審査の目的とは何かを考えれば、参加者全員が「まし」にする責任があるはずなのです。

 

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