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2017年11月の記事

2017.11.27

伊勢丹『ノエル・ア・ラ・モード』でのシャンパーニュ・セミナー

  伊勢丹新宿店で開催されているシャンパーニュの祭典、『ノエル・ア・ラ・モード』のセミナーをひとこま担当させていただきました。
 

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 私の話のメインテーマは、ブジー・グラン・クリュ全般に関してと、私が関わったブジー・グラン・クリュのシャンパーニュ、レ・シュヴァリエ・タンプリエについてです。このワインは、手前みそですが、なかなか納得できる味になっていると思います。いかにもブジーです。それを意図しているからです。つまり、いかにもブジーであるとはどういうことなのか、について話しました。.ブジーは日照時間が長い南向きの斜面で、表土が薄く、チョークが強いクリュです。もうそれだけで、どういう味わいでなければならないかが分かるはずです。大きくて堂々としていて硬質で厳格なのです。..

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 6階のメイン会場でまずこのワインを試飲してからセミナーに参加された方は、セミナーでお出ししたワインを飲んで、「全然違う味じゃないですか」とおっしゃっていましたし、既にこのシャンパーニュを店で販売している方も同じ感想でした。それはそうです。私はこのシャンパーニュが本来どういう味でなければならないかを承知しています。それに向けて調整していかねばなりません。ワインはルーティーン的に抜栓して飲めばいいというものではありません。そういうワインに対する敬意のない態度では、またワインに対する主体的な働きかけがない状態では、ワインは美味しく飲めません。

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 このワインは恐れ多くもテンプル騎士団という名前です(私がつけたわけではありません)。テンプルとはエルサレム第二神殿のことです。ですから私は抜栓前にはエルサレムに向かってひれ伏してお祈りしました。エルサレム第二神殿の守護役という意味は軽いものではないからです。そうでなければ無実の罪で虐殺された中世のテンプル騎士団の人たちに申し訳ありません。また、伊勢丹は大変に混雑していていろいろな人のいろいろな気が入り乱れて大変なことになっているので、ワインをそのまま放置しておくとその乱れた気がワインに入り込んでしまい、わけのわからない味になります。ですから提供前のワインは結界の中に置いて外乱から極力守らねばなりません。ともかく、こうしたステップを経てセミナーでワインをお出ししているので(それは日本橋浜町ワインサロンでもそうです)、普通より美味しいのは当然です。輸入元の方々も、あのような会場で感受性の強い(=外乱要因を受けやすい)ワインを試飲させる時には何をしなければいけないかを考えるべきです。しかしエルサレムに向かって拝めばいいというものではありません。私は6階から7階への階段の踊り場でワインを前にしてひれ伏していましたが、脇を通る方々は当然怪訝な顔をして避けていきます。頭のおかしい人と思ったか、それともイスラム教徒のお祈りの時間かなと思ったでしょう。そこで照れが入ったりしては効果半減です。他人の冷たい視線に耐えて「私は正しいことをしている」と確信をもつ精神力が大事です。どんな宗教だとお思いでしょうが、これは宗教ではありません。このシャンパーニュをある条件下でより正しい味わいで飲むための純粋な技術です。

 

 セミナーで話した主題のひとつは、数字の3と4の意味です。シャンパーニュのセミナーで3と4そのものについて話す人は珍しいでしょう。しかしそれがこのワインには大事なのです。世の中の人は、どの品種が何パーセントであるとか、樽発酵の有無とか、瓶熟成の期間とか、個別の現象論のことばかり気にして、セミナーでもそういうデータをメモしていたりします。大事なことではありますが、それより前に考えねばならないことがあるのです。個別を統合するロジック、現象の背後にある思想です。飲めばたちどころに「ははん、なるほどね」と、要素連関の在り方とその理由と意味を読み取ることができる方も多いとは思いますが、それが分からない方のためにセミナーがあるのです。分からずに飲んでいてもワインを飲んだうちには入らないからです。

 セミナーにご参加の方々に「どのグラン・クリュが好きですか。そしてその理由はなんですか」と聞いたのですが、こんなベーシックな質問だというのにろくな答えが返ってきません。皆さんそれなりに経験豊富なはずなのに、日ごろ意識してシャンパーニュを飲んでいないからです。どこそこの有名ブランド、だれそれのおすすめ、作られた話題性等々の非主体的理由でワインを選んでいるとそうなります。そんなことでは永遠にワイン選びはできません。答えてくださった方の多くは「ブジーが好き」。それはそうです。好きだからこのセミナーにご参加されたのでしょう。ヴェルズネイが好きという方がいなかったのはとても意外でした。私は聞き手の立場だったらまっさきにヴェルズネイと言います。残念でした。期待していたのは、シルリーが好きとかヴェルジーが好きというひねった答えだったのですが。。。

 何人かの方に「おすすめはどれですか」と聞かれましたが、私は答えませんでした。その質問をする前に、「私はこれこれこういうことを求めています」と伝えねばならないはずです。「おすすめの車はどれですか」と聞かれても、何のために車を使うのかわからないでは答えようがないではありませんか。ワインを飲んだ時にただおいしいまずいを思うのではなく、そこには膨大な情報量が詰まっているのだから、それらを抽出して要素分解し、それぞれの要素を自分に役に立つようにファイルに入れ込んでいかねばなりません。

 ところである方が「ブノワ・ラエのシャンパーニュに似ている」と言っていましたが、そのとおりです。さらに「亜硫酸を感じないのはなぜか」と指摘されていましたが、よくぞ気が付いてくれました。答えは「そうですね、亜硫酸を感じないはずです。しかしそれ以上は企業秘密です」。
 いずれにせよ、私のセミナーは他の人とは根本的に違う話だったはずです。私は表層的なPRなどしたくありません。する義務もありません。シャンパーニュを理解するための枠組みをいくばくかでもお伝えできたならよかったと思っております。
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 ちなみに会場でいろいろテイスティングした中で最も印象的だったのは、オーブのエリック・シュライバーのブラン・ド・グリ亜硫酸無添加。素晴らしいエネルギー感と広がりとリズム。さすがシュライバー。ビオディナミの年季が違います。ぺたっとした味のシャンパーニュが嫌いな私としては、無難なバランスより、個性的なダイナミズムを重視します。

2017.11.25

フランチャコルタ試飲会

 11月14日、帝国ホテルでフランチャコルタ協会主催の試飲会が開催されました。今までも開催していたのかも知れませんが、私は初めての経験。よい学習機会となりました。

 

 さて、フランチャコルタは冗談みたいなものです。今ではやたらと高級イメージですし、高価格=高品質=シリアスという等号が西洋のどの産地でも確立してしまっている息苦しい現代においては、たぶんフランチャコルタにもシリアスな味が求められているのでしょうが、そのスタンスじたいが間違っていると思っています。

 ミラノのお金持ちの趣味的ワイン、意識的に作り上げたシャンパーニュのパロディ。それがフランチャコルタです。第二次大戦後のイタリアで、敵国だった国のシャンパーニュを飲むことなど困難だった時、シャンパーニュの味に親しんでいた上流階級が自国で似たものを作ったのが初期のフランチャコルタだと、現地で以前聞いたことがあります。

 パロディならパロディで、割り切ればいいのです。ポジティブにとらえればいいのです。センスのよい換骨奪胎、模倣、文脈ずらし、脱構築は、新たな次元を開拓し、世界の領域を拡大し、さらに我々の認識と理解を進化させ深化させるために、最も有効な手段のひとつです。何をどうやっても、自然の恵みと人間のセンスのよさで、驚くほどのレベルのワインができてしまうのがイタリアという国のすごさ。実際フランチャコルタもそうです。客観的に見て、たいしたものだ、と言うしかありません。しかしパロディとしての高品質さは、ブルゴーニュの修道士的な姿勢で造られた高品質さとは違うものです。フランチャコルタがモンティ・パイソンならブルゴーニュやそれに類するフランスワインはドキュメンタリー。どちらも見事なBBC放送番組だとしても、です。私は「フランチャコルタ=シャンパーニュの模倣=ダメ」という、ありがちなロジックには賛同しません。それを言ったら、我々日本など模倣の歴史です。

 現代のフランチャコルタの問題は、模倣性じたいではなく(そこを論点にしている人も多いのですが)、模倣に充足してオリジナルの文脈を踏襲していることです。オリジナルの文脈内にとどまったままでは、永遠にオリジナルは超えられません。模倣からはじけ飛んで外殻を破り、世界の果てだと思われている境界線を飛び越えてしまうことを求めるべきなのに、安易な既存枠組み内的完成度(それは彼らにしてみればテロワール的にも才覚的にもたやすいはず)の追求に向かう。だから現在の多くのフランチャコルタには、笑いがない。左うちわな遊びがない。吉原の座敷での大店の旦那の宴会芸が見たいのに、超まっとうなビジネスとしての高級ワイン造りの真摯な姿勢を見せられても困る。換言するなら、シャンパーニュの呪縛を解かずしてフランチャコルタの飛躍はないのに、むしろシャンパーニュ的な味わいに向かっていることに抵抗感があるのです。

 そう感じてしまうのも、新しい生産者たちが産地の東側に多く登場したからです。昔のフランチャコルタは西側中心でした。西側は基本的にモレーン、東側は石灰岩です。つまり、昔のフランチャコルタはほんわかふっくらソフトで温かい重心が上気味の味、今の多くのフランチャコルタはきっちりかっちりの固く冷たい重心が下気味の味です。品種も変わりました。最初期のフランチャコルタはピノ・ブランのワインです。今の栽培面積の8割はシャルドネです。ピノ・ブランとシャルドネの違いは、先に述べた土壌の違いと同じで、陽と陰、外向と内向、上と下です。石灰とシャルドネの組み合わせがシャンパーニュ的になるのは当然です。世の中、瓶内二次発酵のワインのリファレンススタンダードがシャンパーニュであることは論を待ちません。初期のフランチャコルタは製法はシャンパーニュと同じでも、土壌と品種が異なるから、まったく違う味わいになっていました。もともとフランチャコルタはイタリアで最も早く、8月半ばに収穫してしまう産地です。つまりブドウの側に立ってみればイタリアで最も温かい。そういう味のワインになってしかるべきです。そのまま完成度を上げ、シャンパーニュと違う世界を打ち立てる可能性があったのに、フランチャコルタは世の中の基準に取り込まれてしまったのです。さらに今ではどの産地も酸を重視して早く収穫する傾向にあります。それではますますシャンパーニュの味に近づきます。あの、硬質で冷たいシリアスな味です。それが望みなら、私はシャンパーニュを買います。彼らはあの完成度に至るまでに産地全体の総力をあげて何百年も費やしているのです。そう簡単に勝てる相手ではありませんし、もともと戦うべき相手でもありません。

 

フランチャコルタの公式サイトに掲載されているシンポジウムの席上、アルタガンマ(フェラーリやフェラガモ等イタリアハイエンドブランドの連合会)のイリー会長は以下のように発言しています。

”Prosecco cannot represent quality, tradition and top-of-the-line excellence. That role is played by Franciacorta. Italy is the land of beauty, creativity and culture. And its beauty can exalt the product and the expertise. The French are better versed financially and in distribution, but in terms of product, we have a leg up. Franciacorta wine and the Franciacorta area can epitomize the Italian ‘dolce vita’. Let us graciously leave the aperitif to Prosecco and the special occasions to Champagne”.

非常に興味深い意見ですし、基本賛同します。だからこそ私は、イタリアのドルチェ・ヴィータを表象するためには、モレーン&ピノ・ブランが生み出す明るく上昇的でふっくらとグラマラスで快楽的な味わいのほうが、石灰岩&シャルドネの修行僧的味わいより好適だと思えるのです。シャンパーニュが日常とは分断されたフォーマルな非日常のためのワインなら、フランチャコルタは日常のただ中に闖入してくるラグジュアラスな非日常=非日常を内包しつつ膨張収縮を繰り返しつつ進むスリリングにしてグラマラスな日常のための最高のワインであってほしい。そんなことができるのは天才的な美の追求者イタリアしかない。高品質=シャンパーニュ的、ではイタリアの名折れであり、恥です。

 

さる輸入元のブースで、その会社の偉い方がサービスをしていました。東側の石灰岩のフランチャコルタをテイスティングして、非常に生真面目な修行僧的味わいだな、と思いました。こんな会話をしました。

「いかにもあなたらしい真面目なワインだな」。

「私は真面目ですよ。朝は誰よりも早く出社して夜は誰よりも遅く帰ります」。

「いかにもそういう人が好きなワインという感じ」。

「私はこういうワインが好きなんです!」。

「僕はもうちょっと官能的なワインがいいな。裾がはだけた感じがいいんだ」。

すると某著名ワインバーの方が傍に来て、

 「おお、田中さんの裾のはだけたところを見てみたいな」。

 「あなたが女性なら見せてやるさ」。

 「そう来ますか」。

 「ばかやろう、酔っぱらいのおやじの会話みたいなことをさせるんじゃない」。

なんともフランチャコルタらしいやりとりだったと、振り返って、我ながら思います。

 

 話は若干逸れますが、昨日テレビ番組で、西洋における日本料理の浸透を扱っていました。白いご飯にお好み焼きソースをかけたり、寿司をゴマダレで食べたりしていました。日本の食は禁欲的で、淡いことをよしとします。しかし食にグラマラスなコクを求める文化にあっては、日本のご飯はただ味のないものです。それはおかしい、世界基準のおいしさではないと言われたら我々はどう思うか。西欧の大国は、ご存知のとおり、帝国主義メンタリティーが抜けないので、アジアは収奪する対象です。日本の食材やアイデアをフランス料理に取り入れて偉そうにしている。しかし日本料理の文化的文脈を総体として受容する気はない。白いご飯には味をつけない、というのは日本料理にとって根本的なことです。そこが理解できないなら日本料理など食べるなと言いたい。

とはいえ、人間はそれまでの人生のあいだに内面化された判断基準からはなかなか自由になれないものです。我々の多くは、シャンパーニュの味をすべてのスパークリングワインのスタンダードとして無自覚的に内面化してしまっている。だからおのずとフランチャコルタにそれを無自覚的に該当させることになる。自分自身を対象化する努力なしには、この傾向は不可避です。

それでも言わねばなりません。高品質はひとつではない。それぞれにふさわしい文脈でのふさわしい高品質がある。これを考えて欲しい。我々消費者のキャパシティーが小さく、理解度が低く、多元的な視点が獲得できず、認識の対象は多様化できても認識の枠組みを多様化できなければ、ひとつの味わいやスタイルしか認められず、結局は白飯にお好み焼きソースをかけるのと同じことを、我々はさまざまなワインに対して行ってしまいます。フランス人が日本料理をフランスの文脈に合致するように変化させるならまだ弁護の余地はありますが、日本人がフランチャコルタをシャンパーニュの文脈で理解するなど、どんな観点からしてもおかしなことです。

 

 方向性に関する哲学的議論はともかくとして、純粋にワインの物理的な出来を見るなら、フランチャコルタはたいしたものです。ひさしぶりにフランチャコルタを飲みましたが、本当に平均レベルが上がっていると感心しました。ある意味、シャンパーニュより上です。フランチャコルタはシャンパーニュと異なり、全般的に農薬っぽい味がしません。以前はこのことに気づきませんでした。聞けば畑の7割がオーガニックないし転換中ないし実質オーガニックだとのこと。7割です。おそるべき数字です。ある生産者は「世界最大のオーガニック産地がフランチャコルタ。フランチャコルタはオーガニックワインの世界の中心」と言っていました。この点に関しては、もう無条件的に称賛するしかありません。農薬味が嫌いなら、まずはフランチャコルタを飲め、です。

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 34社の膨大な本数が並んでいた試飲会ですべてのワインを飲んだわけではありませんが、もっとも気に入ったフランチャコルタは、意外かもしれないし、順当かもしれませんが、カデルボスコ キュヴェ・プレステージ・ロゼ NV です。言うまでもなくフランチャコルタの初期から活躍している超大手。開放的で快楽的なふんわりふくよかな味です。華やかな香りに心地よく充実したクリーンな果実味。隙なく均一な密度で丸い形。まったく不安定感がなく、いいテロワールと優れたセンスを感じさせます。白よりロゼのほうが、左うちわ感が強いのがいい。がんばった感がないのは大事なのです。そういう点では、これまた当然すぎて笑われるぐらいですが、グイド・ベルルッキの灰汁の抜けた流し感もいいと思いました。カデルボスコに話を戻すなら、シャンパーニュでさえ同じく、私はあまり長期熟成ワインがいいとは思えない。その点NV30か月熟成と長すぎず、果実がフレッシュで疲れていません。この溌剌感は、私にとってフランチャコルタにはシャンパーニュ以上に重要に思えます。

 そのブースには知り合いがいました。ジャパン・ワイン・チャレンジの審査員として私のテーブルだった方です。今年、ちょうどフランチャコルタの審査が私のところにまわってきました。いや、それがフランチャコルタかどうかはブラインドだからわかりませんが、まあ、どう見てもフランチャコルタでした。私はそこでフランチャコルタとは何か、どうあるべきなのか、について滔々と語り、ワインAがワインBより優れている理由を説明していました。すると、その方が「ところで私が誰か知っていてものを話しているのか」と。「いえ、知りません。私は誰が審査員なのか事前に知りません」。「私はカデルボスコから来た」。「おお、ならば話が早い。私の意見に賛同しますか?」。「ええ、あなたはフランチャコルタをよく知っているね」。私はその時も、今回と同じ考えを述べていました。一言でいうなら、シャンパーニュもどきではなく、らしさの強いものを評価せよ、です。しかし釈迦に説法とはこのことです!

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 もうひとつ気に入ったのは、Santusです。2005年に栽培学者Maria Luisa Santus さんと 写真のGianfranco Paganoさんが立ち上げた10ヘクタールの小さなワイナリー。シャルドネ80%、ピノ・ネロ20%ですが、シャルドネにありがちないやな固さが感じられません。しっかり熟した果実のコクと質感の厚みと堂々たるスケール感と余裕があり、その中にしっかりとミネラルの構造があります。いわく、「多くのフランチャコルタは早く収穫しすぎて青い酸が目立つし、本当のミネラル感が表現されていない」。私も同感ですから、「ミネラリティ―は熟したブドウからのみ得られるものです!」。「その通り!」。私はこういう味のするスパークリングワインが好きです。ジャック・セロスもそこがポイントです。セロスも高アルコール・低酸をおそれず、熟したブドウを使っています。とにかく、同じことばかり言って徒労感がありますが、ワインは熟したブドウから造ってください、お願いします。ここは訪問したいと思いました。
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 興味深かったのは、カステッロ・ボノミ。畑はミラノとヴェネチアのあいだを結ぶ高速道路の南側にポコンと飛び出た石灰岩の丘の南斜面です。この高速はよく通りますが、その北側の丘陵だけがフランチャコルタだと思っていましたし、ちょうどカステッロ・ボノミのあるコッカーリオあたりの高速の北側のわきにはショッピング・モールがあって、運転しているとそちらばかり見てしまいます。ここまで南だと、ワインはイゼオ湖の影響をあまり感じない、メリハリ型=内陸型の味がします。けっこうな斜面ですから垂直性も強い。ですからシャンパーニュ的な側面が強まります。これはこれで大した完成度のワインです。

 

 

2017.11.07

キャンティ・クラシコ試飲会

 六本木のグランド・ハイアットでキャンティ・クラシコの試飲会があると小耳にはさんだので、覗かせていただきました。

キャンティ・クラシコは自分にとって現在微妙なポジションにあるワインです。その理由は、

1、クラシコだろうがなんだろうが、キャンティは自分にとってはカジュアルなベーシックワインとして意味があると思っています。なぜならサンジョベーゼは、実質的機能的な品種であって、崇敬の対象となる超越性や神秘性に欠ける味に思えるからです(もちろん個人の主観です)。スケールが小さい、余韻はそこそこ、そして香りが伸びず、天空から降り注いでくるような光の感覚が与えられない、というのがキャンティでありキャンティ・クラシコです。別にそれが悪いと言っているのではありません。それゆえに現実的な食卓で完璧に機能するのです。そういう点ではラングドックのカリニャンにも似ています。しかしキャンティ・クラシコは、どこか無理をして身の丈以上を求めているような気がしてなりません。

2、メディチ家がいかに権力と富を集中させていたとはいえ公的な身分としては一市民だった(だから簡単に追放もされてしまう)とか、リカーゾリ男爵がイタリア国王から上位の爵位を提示された時に断った、とか、トスカーナの歴史にまつわる話は、どこか反“高貴”、反“権威”なところがあり、私はそこが好きなのです。本来ならDOCGとか言ってないで、そういう中央政府のお墨付き系権威にはフンっとそっぽを向き、テーブルワインでいいじゃん、みたいなノリが欲しいところなのです。サッシカイア等“テーブルワイン”が人気になった1980年代は、自分にとっては非常に“トスカーナ”でした。リゼルヴァでは飽き足らず、さらに上階をつみあげてグラン・セレツィオーネ格付けを作りましたが、そういう発想じたいが好ましいとは思えません。健全な脱権力メカニズムを内包していないイタリア、つまり適当に流すことをしないイタリアは、イタリアらしいとも思えません。もちろん誤解がないように付言するなら、私はイタリアそのものを言っているのではなく、我々がイタリアワインを飲む時、ないしイタリア料理店に行くとき、ないしイタリアに観光しに行くときに求める世界観は何か、という話です。イタリアワインはカジュアルだから意味がある、アフターファイブ的なTPOに適合する、わきあいあいのめんどくさい話抜きの状況で機能する、ということです。

3、前項と関係しますが、この前トスカーナに行ったとき、キャンティ・クラシコ地区からは昔の牧歌的な雰囲気がすっかり消失し、お金持ち用観光地になっていて正直気持ち悪いとさえ思い、キャンティ・クラシコと聞いてもなにかポジティブなイメージが湧かないのは事実です。

4、思想的またイメージ的側面を無視したとしても、現代のキャンティ・クラシコの味わいがなんの料理に合うのかよく分かりません。私はキャンティ・クラシコを率先して合わせる料理はサンマの塩焼き(+大根おろし+レモン)だけです。トスカーナで好きな相性は安いキャンティとウサギのフライです。どちらも重心が高いというのがポイントなのは分かりますね。トスカーナの内陸ワインは基本、標高300から400メートルといった高地のワインです。しかし多くの人はキャンティ・クラシコとビステッカ・フィオレンティーナを合わせます。そうするとワインが肉を抑え込む形の味わいになります。ワインのほうが重心が高いので、上から蓋をする形です。トスカーナに牛肉は日本やアメリカの牛肉よりも重心が高いとはいえ、それでもワインのほうがさらに高いのが普通です。またワインのタンニンと酸の両方が強いので、もともと少ない脂肪(とことん赤身ですから)をさらに切ってしまい、後味がドライになります。さらに牛肉の味わいの幅のほうがワインよりも大きいことがほとんどだと思いますから、ワインが肉の味の中に入ってしまって、ソースのように包み込んで肉の味を持ち上げる形になりません。ラルドのたぐいキャンティ・クラシコもおいしいとは思えません。豚肉はトスカーナでも重心が低いので、牛肉以上に合いませんし、そもそも豚肉の脂肪をワインのタンニンと酸で切るという発想が正しいとは思えません。トスカーナで食べても合わないのですから、基本的に食材の重心が低い日本ではもっと合いません。和牛のTボーンステーキはトスカーナの牛より流速が遅く、さらにスケール感が大きく、柔らかく、うまみのポイントは脂肪そのものにあるので、重心が高く流速が早く小さく固くすっぱいワインはどんな意味でも肉の魅力を相殺していく方向に働きます。ソムリエの森上さんがいたので、私は彼にこの話をしていたのですが、彼も同感でした。過去の経験を思い出しても、牛肉と合わせておいしかったのは、マッセート、ヴィーニャ・ダルチェオ、ルーチェ等、つまりボルドー品種のワイン、ないしシエピやソライア等ボルドー品種とサンジョベーゼのブレンドワインです。どうしてもキャンティ・クラシコを料理に合わせよ、と言われたらラム肉のグリルにします。しかし今度は、サンジョベーゼのタンニンの粗さが目立つことになります。

5、上記の補足ですが、キャンティ・クラシコがステーキに絶対に合わなかったわけではありません。もうずいぶん前の記憶になりますが、82年、85年、88年、90年あたりのヴィンテージは今より合っていました。96年でもそうでした。97年からおかしいような気がします。それは地球温暖化の影響です。現在のキャンティ・クラシコは早摘みの味です。完熟したブドウでは、今ではアルコールが14度以上になってしまうでしょうから、早く収穫するしかありません。だから昔より重心が高くて固くてすっぱいのです。セミナーを担当されていた(私は招待状もなかったのでセミナーは聞けません)イタリアワインのジャーナリスト、宮嶋さんが会場外のソファに座っているのを見かけたので、帰り際にこのテーマでちょっと議論していたのですが、彼は「バローロは大変です」と。イタリア全土で、というかヨーロッパじゅうでこの早摘み問題はあるわけですが、特にバローロがひどくて、あの値段であの味でどうするのかとは思います。品種に関してフレキシブルに対応できないと産地の名声も滅びます。しかし今の多くのアペラシオンは品種が固定されています。キャンティ・クラシコもそうです。もしかしたら今ではウヴァ・ディ・トロイアやネグロアマーロやカリニャンでも植えるほうがいい気温なのかも知れませんが、サンジョベーゼにすがる以外ありません。せめて抗高温性の晩熟のサンジョベーゼクローンを作る努力をするべきです。私はカルヌントゥムやファルツのシラーがおいしい、フランケンのカベルネがおいしいと言ってきました。いつまでもリースリングとか言っていてもだめです。同じことです。しかしカルヌントゥムは数多い認可品種の中の何を植えてもカルヌントゥムだからいい。地球温暖化対策のためには単一品種絶対思考から脱しねばなりません。

6、最後に、自分にとってはキャンティ・クラシコは中途半端に高い。ゆえに日常ワインではなく、鑑賞用ワインでもなく、コレクションワインでもなく(キャンティは10年以内に飲んだほうがおいしいと思います。ピノやネッビオーロやシラーみたいに20年経って化けるという品種ではありません)、ガストロノミー用ワインでもないなら、いったいなんの役に立つのかわかりません。

 

 というわけで、まずは批判的視点からいろいろと書きました。もしかしたらキャンティ・クラシコの中にも超絶的夢幻的陶酔的に素晴らしいものがあるかも知れませんから断言はしません。しかし試飲会で50本のワインを飲んだ印象は、論点を強調すべく若干誇張しているところがないとは言いませんけれど、だいたい今書いたとおりです。

 今回試飲に供されていたヴィンテージは、アンナータが2015年、リゼルヴァが2014年、グラン・セレツィオーネが2013年か2012年でした。暖かく、雨も降らず、かといって乾燥もしすぎず、何人もの生産者が「教科書的なグレートヴィンテージ」と言う2015年は、成功している時は酸がおだやかでタンニンがまるく、大変に調和がとれた飲みやすいワインです。しかしいくつかのワインはジャミー、いくつかのワインは早摘みで青臭いので注意が必要でしょう。こういう年ほど地球温暖化の影響が出るのです。しかしポテンシャルの高さは確かなので、よいワインを探してみる価値は十分にありますし、グラン・セレツィオーネのこのヴィンテージはとても楽しみです。

 その正反対に、夏のあいだ低温が続いた「とても難しい年」だった2014年は、その低温が幸いして、構造はタイトで酸は強いものの、それは無理やりに早摘みした固くてつぶれた酸ではなく、抜けの良さがあります。濃いワインを造りたくとも造れない年ですから、味わいに頑張ったところがないのもいいと思います。ロワールのカベルネ・フランやピノー・ドニが好きな人には特にいいでしょう。このヴィンテージは極めて明瞭な集中型ですから、是非焼き鳥と一緒に味わってみて欲しい。

 2013年は、最近では一番魅力のない年です。天候不順をかんじさせるぎこちなさ。スケールが小さく、酸もタンニンも固い。うまくいけば緻密で堅牢でフレッシュなのですが、当たりの確率は一番低いと思います。ヨーロッパじゅう、この年は難しいです。

 2012年は、ヴェルヴェット的な厚みのある質感と若干緩い構造の、酸が低めの年です。シチュー系料理にはぴったりです。少々もっさりしているとはいえ、それがむしろ料理には合わせやすい。他の年より重心が低めなのも使いやすい。そこはボルドーでもブルゴーニュでも同じです。サンジョベーゼファン向けというより、一般向けヴィンテージです。ソムリエの森上さんとヴィンテージ談義をしていて、彼は「私は2年前から2012年がいいと言ってきたのですよ。和食に合わせやすいヴィンテージはこれしかない」と言っていました。その通りです。

 村ごとの違いは常に明らかです。剛直なグレーヴェ、神経質なぐらいにミネラリーでタイトなラッダ、つるっと品のよい、しかし水平的なカステリーナ、おおらかな広がり感のあるガイオーレ、腰が据わって厚みのあるパンザノです。おしなべて不調だったのはカステルヌオーヴォ・ベラルディンガです。昔はゆとりがあったと思うのですが、妙にほぐれなくて早摘みの影響が顕著です。場所を考えればわからなくもありません。

 全体を見ればあれこれ言いたくなるキャンティ・クラシコですが、個別に見ればおいしいワインはもちろんいくつもあります。その中で印象的なワインをふたつ挙げるなら、

 

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ロッカ・デッレ・マチエ 

グラン・セレツィオーネ リゼルヴァ・ディ・フィツィアーノ 2013年

5000円

 これは2013年で、確かにこのヴィンテージらしく小さくて前年のようなやわらかいゆったり感はありませんが、それでも明らかにグラン・クリュの味がします。標高が高すぎず、低すぎずの斜面の真ん中というのがいいのです。カステリーナとしては珍しく垂直的ですし、重心が真ん中です。ブルゴーニュのグラン・クリュが斜面の真ん中にあるという事実を忘れてはいけません。質感がしなやかで、ぐいっと下方向に食い込んでいくのは、石灰と砂の土壌ならでは。このフィツィアーノ畑は軽い土壌です。だからタンニンがごつくならず、酸もソフトになります。

 

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ロッカ・ディ・モンテグロッシ 

アンナータ 2014年

3500円

 ガイオーレのスケール感の大きさ、マクロ的なつかみの安定感がいい。その上、味わいの広がりのグラデーションがあり、外側にくっきりと線が引かれた(つまりワインの内側と外側が明確に遮断されている)ワインが多い中で、これは自然なにじみ感があります。重心も高くなりすぎませんし、妙な固さもありません。優れたテロワールでナチュラルな栽培というのがよく分かります。そして木桶発酵、大樽熟成というのがいいのだと思います。

 

2017.11.06

ラック・コーポレーション 2017秋の試飲会

 帝国ホテルで行われた恒例のラック・コーポレーションの試飲会でブルゴーニュワインをテイスティングしてきました。
 ブルゴーニュワインに詳しくない私でさえ、100本超のブルゴーニュが並んでいて比較試飲すると、いろいろと理解できるようになります。ありがたい機会です。今回のメインのヴィンテージは2014年と2015年です。88年と89年、03年と04年、08年と09年の時と同じく、このぐらい両極端の個性で、なおかつどちらも質的には優れているヴィンテージが並んでいると、試飲は楽しくてしかたありません。
 2014年は、春までは暑くて夏は涼しく秋は再び暖かい。8月より9月の気温が高いというのは異常です。日照量は通年で1887時間と少なく(特に夏は極めて少ない)、降水量は816ミリと多い。2015年は基本、過去平均どおりのカーブで、夏は暑く(6月は記録的高温)春秋は涼しい。日照量は2073時間と多く、降水量は572ミリと少ない(以上、ディジョン測候所のデータ)。これだけでどんな味なのか想像つきますし、実際にその通りです。
 2014年は酸が高くすっきりした風味ですから、多くの人は白ワイン向き、と考えます。白=すっきり、赤=こってり。白=酸、赤=タンニン、白=軽い、赤=重い、といった二分法でワインを把握する人が大変に多いと思います。それは百害あって一利なしです。それらの形容とワインの色は一対一対応しません。当たり前ではありませんか。その単純化のせいで、どれだけの品種や産地がゆがめられ、ガストロノミー的な創造性が妨げられ、ワインの世界が矮小化されていることか。それはともかく、ナーエのリースリングみたいな味が好きなら、2014年のブルゴーニュ白をお勧めします。ちなみにシャブリに関しては、2014年を買わずしてどうするのかというぐらい、いかにもシャブリな味のグレート・ヴィンテージです。
 しかしシャルドネは基本的にはむっちりした太い味の品種だと思います。ないし、むっちり太い味になったときに本領発揮するワインだと。ブルゴーニュに関して私が仮に「涼しい年の白と暑い年の赤の組み合わせか、涼しい年の赤と暑い年の白の組み合わせ、どちらが好きか」と聞かれたら、後者と答えます。好き嫌いではなく、どちらが“らしい”かと聞かれたら、なおさらそう答えます。もちろんそれは圧倒的な少数意見。2014年の白はミッドが薄すぎて頼りない。そして往々にしてすっぱすぎです。少なくとも十年は熟成させたいものです。ところがたまに、2014年の白はぺトロール的な香りが感じられる時があります。今からそんな香りでは、酸を和らげようとしてセラーに放置しておいたら、ただ劣化していくだけのような気がしないでもありません。
 2014年の酸は強くとも、その酸はちゃんと熟しています。ですからギスギスしたエッジや胃が痛くなるキツさはありません。そればかりか味わいの最後にふわっとした甘さがほんのりと広がります。収穫前にしばらく高温が続いたからです。ミッドまでの緊張感から一転して最後に見せる暖色系の景色、この色っぽさがなければ、このツンデレ感がなければ、2014年は真面目一方の並みのヴィンテージになってしまいます。
 2015年の白は若干フォーカスは緩いものの、2014年とは比較にならないほどの立体的なボリュームがあります。しかしパイナップル的では決してなく、レモンコンフィ的な果実味で、清涼感を失っていません。昼夜の気温差はむしろ2014年より大きいので、酸もあります。夏の乾燥の影響も赤のようには感じません。ブルゴーニュではシャルドネは基本、泥灰岩のところ、粘土の多いところに植えられるので、水分ストレスが少ないのでしょう。

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 この事情が端的に理解できるのが、ルフレーヴのピュリニー・モンラッシェ1級クラヴォワイヨンです。普通、このワインは鈍重で抜けが悪く、水平的で粘った感じがして、決して最上のクリマだとは思えません。近代まではクラヴォワイヨンはブドウ畑ではなく、耕作馬の馬場だったと聞きました。土が重いのです。しかし2015年は見事。堂々として、極めてスケールが大きく、ダイナミックで、凝縮度がすごい。それはやはりビオディナミ栽培のおかげでもあると思います。その他大勢のリュット・レゾネのワインと比べたら格段のダイナミズムであり、別格の存在感です。
 赤の2014年は、ピノ・ノワールのもつ透明感、可憐さ、気配感、伸び、精神的な集中度、瞑想的な垂直性を重視するなら、空前のヴィンテージです。88年や96年のピシッとフォーカスが合った味が好きだった人には、久しぶりに出会えた“あの味”。2014年のほうがソフトで、よりストロベリー的(赤すぐりやクランベリーというより)で、そういう点では2007年にも似た部分があり、しかし96年のような収量が多い年よりさらに凝縮度が高いと思えます。ですからそういう個性を求めるべき畑や生産者のワインがいいに決まっています。

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 では2014年らしい村はどこか。シャンボールであり、ジュヴレであり、リュリーです。モレやヴォーヌ・ロマネやジヴリーではありません。そしてラックが扱っている生産者なら、ティエリー・モルテでありジャン・ジャック・コンフュロンです。写真のワインは、絶対の買いです。どちらもオーガニックですから、雑味がなく、向こうまで見通せる抜けのよさがありながらも、温かい密度感もあり、後味はしなやかでふっくらとして広がります。むろんオーガニックならすべておいしいとは言いません。たとえば個人的にはモンティーユの冷たさや固さには、とりわけそれがビオディナミだとすれば、違和感があります。
 2015年の赤は、もちろん堂々としてパワフルで太くて凝縮度が高く、しかしジャミーではまったくなく、素晴らしいものですが、今回の試飲会の印象ではなぜか不思議と一本調子で、2010年にも似たミルランダンジュ的硬質さとスパイシーさが目立ち、果実味の自然な広がりを途中でブロックしているかのようです。ある種の苦みは、夏の乾燥のあいだに生育がストップした時の痕跡かも知れません。しかし固さ、ゴツさは十年以上熟成させればそれなりにほぐれるものです。76年、86年、95年、98年、05年、10年もずいぶん固かったではありませんですか。最近は誰もかれもが、酸がいい、とか、きれい、とか、エレガント、とか、濃くないのがいい、とか呪文のように言うようですから、きっと2015年に対しては批判的な見方をするほうがワインマニアの方々からは褒められるでしょう。
 この試飲会のあとブルゴーニュで飲んだ2015年の印象はずいぶん違います。日本では閉じた状態なのでしょうか。この試飲会だけの結論では、2015年はいまひとつ。ブルゴーニュでの印象では、2015年は2009年の熟した陽性の果実味と2010年の陰性の密度と2005年の明快な構造を兼ね備えた(というか、足して3で割った)、誰でも理解できる完成度と存在感のあるグレート・ヴィンテージです。ブルゴーニュの生産者にワインがおいしいと伝えると、謙遜から「そりゃ2015年ですから。まれにみる素晴らしいヴィンテージですからね」と、口を揃えて言っていました。完全無欠とは言いません。2015年は香りの上昇力に欠け、フッと抜ける軽快さに関しては弱い。時間をかけて、内側から熟成による香りが立ち上がってくるようになるまで待つべきヴィンテージなのは明らかです。若いうちの香りの伸びを欲するなら、空前の2014年がいま店頭に並んでいるではありませんか。

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 この試飲会では、ラックが新たに取り扱いをはじめた6つのドメーヌ、アントナン・ギヨン、シャルル・オードワン、エリック・ド・シュールマン、ジャン・クロード・レニョード、セリニー、グザヴィエ・モノに関しては別のテーブルが設けられていました。中ではセリニーのサヴィニー・レ・ボーヌが気に入りました。これは2015年です。通常ならボディ感に欠け、少々薄いサヴィニーですが、この2015年はサヴィニーらしいなめらかさがありながら、コクや腰の強さがあり、見事なものでした。これに関しては2015年の偉大な力をまざまざと感じることができました。
 他のヴィンテージもいくつか並んでいました。例によって2013年は小さくて単体ではおもしろくありません。2012年のある種のいい加減さ、ゆるさ、温かみ、中肉中背感、おやじギャグ的ほのぼの感は、家庭用ないしビストロ用、そして煮込み料理用冬向けワインとして、相変わらず素晴らしい個性だと思います。例えば、「今日はハンバーグのデミグラスソースを食べます。さてワインはどのヴィンテージにしますか」というお題が与えられた時の答えです。かっこいい味ではありませんが、それがいいのです。家庭にワインを揃えておく時、家庭で普通に食べる料理に合わないワインばかりではしかたないというのは分かりますね。

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 私が好きだったのは、そして飲みごろになっていたのは、2011年です。この年のイチゴ風味と低い酸と陽性の性格(しかし2007年ほどは突き抜けておらず、ちょっとのキツさがあるところが現世的)と適度の流し感と軽さは心地よいものです。2012年が牛肉用なら2011年は鶏肉用です。写真のヴォルネイの2011年を、クリスマス・ディナーのチキン用にお勧めします。それは極めて順当な、順当すぎるほど順当な選択です。現在のブルゴーニュを支えているのは相当ディープなワイン通でしょうから、その方々には「そんなド素人なカッコ悪いことができるか!」と言われてしまいます。その通が通のロジックとセンスでワインを売ったりワインの情報を伝えたりするだけだと、世の中の普通の人のあいだから、「順当」、「基本」が失われてしまいます。だから私のようなワイン通ではない普通の声も大事なのだと自分では思っています。

ブルゴーニュ ドメーヌ・コンフュロン・コトティド

 最近のコート・ド・ニュイのドメーヌは、いわば上流階級向け会員制クラブ。一般人の我々が訪問するなど夢のまた夢に近い状況。まあそれもしかたありません。ある生産者に「一年に何人ぐらい来るのですか」と聞くと、「7千人」。それでは試飲するだけでワインがなくなってしまいます!ワインツーリズムが盛んになったのは素晴らしいことだとはいえ、ワイン造りの本業がおろそかになっては元も子もありません。

 今回のブルゴーニュ訪問はペルナン・ヴェルジュレスとマランジェがテーマでしたが、時間が空いたので一軒ぐらいは定番かつ個人的に大好きなメジャー・アペラシオンの生産者を訪ねて2016年のブルゴーニュを試飲したいと思っていたら、ありがたいことにドメーヌ・コンフュロン・コトティドのオーナー兄弟の弟にして醸造責任者、イヴ・コンフュロンからOKをもらいました。

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イヴ・コンフュロンは変人として有名ですが、ただのへんな人ではありません。天才です。飲めばわかります。普通の人にはこういうワインは造れません。ピカソでもピカビアでもコクトーでもランボーでもそうでしょうけれど、天才の作品にはある種のハジケ感、クオンタム・リープ感、美しい亀裂や断層の快感、ロジカルな予想を超えるなにものかの到来があります。自分が作品を俯瞰視して対象化するのではなく、作品の中で自分が踊らされ、刻まれ、こねられ、新たに造形されるような、常識的な主従関係、主体客体関係が逆転する感覚は、天才の作品だけが可能とするものです。普通の人の普通のワインが安心をもたらし、普通の人のへんなワインが困惑をもたらし、へんな人の普通のワインがもどかしさをもたらし、へんな人のへんなワインが笑いをもたらすとすれば、イヴ・コンフュロンのような天才のワインは衝撃・興奮・快楽・発見をもたらします。今回の試飲で感じたことは、まさにそれでした。凡庸な私には、こういう特別な世界を見せてくれるワインが必要なのです。

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ヴォーヌ・ロマネ村の南のほうにあるドメーヌを訪ね、「こんにちは。十年ぶりです。覚えていますか」とあいさつすると、「ああ、覚えているよ。前回と同じ靴を履いているからね」。彼一流の冗談です。覚えているはずがありません。履いていた靴は3年前に買ったものですから。馴れないと、言葉をどれだけ真に受けていいのか戸惑います。十年前は「こんな空気の悪いところで試飲してもおいしくない」と言って、グラスにワインが注がれるたびに階段を上がって外に出ていたので、もしかしたら印象に残っていたかも知れませんが。ちなみに今回は十年前のような空気の淀み感・つぶれ感がなく、ワインの気配に伸びがあったので、セラーの中で試飲しました。

イヴ・コンフュロンのワインが好きな理由のひとつに、ブドウの完熟度があります。以前から遅摘みで有名でしたが、最近多くの人が収穫を早めているので、なおさら彼のワインの特徴が顕著に分かります。私はイヴ・コンフュロンが正しくて、他の多くの人たちが間違っていると思っています。彼のワインは、極めて収量を抑えた実質オーガニック栽培のブドウ(2017年のような年でも平均26hl/ha)を遅く摘み、どんな年でも除梗せずに発酵し、しっかり抽出し、新樽比率は低めで、長い期間樽熟成させるというものです。ものすごく力のあるワインを長く寝かせてほぐれさせるという点では、ジャコモ・コンテルノのバローロ的と比喩表現できるでしょう。しかし誤解されたくありません。若いうちはエグくて飲めないわけではありません。そればかりかものすごくフルーティで、抵抗感なく飲めます。バランスがよいため気づかないだけで、本当は凝縮度が高いのです。
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最初のブルゴーニュ・ルージュからしてコンフュロンらしい個性が全開です。イヴは言います、「最近のブルゴーニュは高価なので、一般の人が買えない。しかし底辺のワインがなければ、消費者は入ってくることがなく、生涯ブルゴーニュから疎遠になってしまう。だからブルゴーニュ・ルージュは重要なワインだし、造るのがおもしろい」。ワインを口にした時に、私は「ああ、熟したブドウの味がする!2016年のベルベット的な厚みのある柔らかさ、性格の穏やかさ、まろやかさが見事に表現されている!酸が低いのにボケていない」と言いました。彼は私と同じで、最近の「酸、きれい、エレガント」を連呼するスタイル先行にせブルゴーニュファンが持ち上げる若造たちの早摘みワインが嫌いですから、「今のブルゴーニュはおかしい。早く収穫しすぎ、抽出が弱すぎだ。彼らのワインはピノ・ノワールという品種のワインであってブルゴーニュではない。スタイルが優勢で、どれも同じ味がする」と、相当に怒っています。

次はヴォーヌ・ロマネ村名。ヴォーヌ・ロマネ以外の何物でもないリッチな黒系果実とふっくらしたウール的質感とやわらかい粘性の高さとおだやかな酸とスパイシーなアクセントの、重心が低いワインです。さすが地元ドメーヌならではの完成度。

シャンボール・ミュジニー村名。きちんと上下の垂直性があります。すっきりしてこまやかで抜けがよく、香りの繊細さはシャンボール。少し重心が高め。「標高が低いところのスパイシーさと粒々した土っぽさもありますね。一般に言われるシャンボールらしさとは違う筋肉質な性質」と言うと、「フルミエール区画」だと。ようするに、ボンヌ・マール側らしい個性です。その上に標高の高い区画の軽快さ、華やかさが付け加わるのがいい。

それにしても2016年はストレス感のない味です。イヴ曰く、「2015年と2016年はどちらも暖かい年。しかし2015年は夏はとても乾燥してブドウにストレスが多く、途中で生育がストップした。パワフルな味。2016年はいい感じに暖かく、いい感じに乾燥しすぎなかった」。2016年ののほほんとした人のよさ、苦労のなさ、緊張感のなさは、下手をすると危険です。ワインの中に本来備わっているべきミネラルがきちんと表現されていないと、そしてエネルギー感の支えがないと、のほほんがぼんやりになり、緊張感のなさが弛緩になってしまう。コンフュロン・コトティドのワインを飲むと、そのことがよく分かるはずです。

次はニュイ・サン・ジョルジュ村名。硬質でキメが細かく、直線的で垂直的で無駄がなく、整然とした黒い直方体が口に中に立ち上がるかのようで、まさにニュイ・サン・ジョルジュです。しかしドラマの発展がありません。わくわくするようなヤバさが皆無。私はこう言いました、「これはいかにもニュイですが、色気がないから好きではありません。あなたには色気があるし、今まで飲んできたワインにも色気があった。それがいいんですよ。あなたは若いころは女性にモテたでしょう?」。47歳になる彼は切り返して、「今でも若いから」。

ジュヴレ・シャンベルタン1級クレピヨ。私が好きなキュヴェのひとつです。私はこう言いました、「タンニンが強いとはいえ、性格がチャーミングで、ふっくらとした黒系果実味が広がって、甘ささえ感じる。やさしいクレピヨはジュヴレ・シャンベルタンらしくないとも言えますが、私はこれが好きですし、ジュヴレにはこういう側面があるということがよく分かります」。

ジュヴレ・シャンベルタン1級ラヴォー・サン・ジャック。これは驚きです。「普通私はラヴォー・サン・ジャックがおいしいとは思わないのですよ。往々にして固すぎてすっぱすぎて青い。コンブの谷風が吹き降ろす場所ですからしかたないと思っていました。しかしこのワインは熟しているではありませんか!ところでラヴォーはマルヌ土壌ですよね?」、「そう、マルヌ」。「マルヌのくっきりした酸がありながら、同時にしなやか。それにマルヌ独特の香り。何と言ったらいいか、、、」、「スパイシーだろ?」、「そう、スパイシーさもあり、フローラルさもあり、すっきりした赤系果実もある。私はマルヌの赤が好きなんです」。「他の人は早く収穫しすぎなんだよ」。

シャンボール・ミュジニー1級デリエール・ラ・グランジュ。丸みがあってスケールが大きく、タンニンは太めで、適度な土っぽさや鉄っぽさや黒系スパイシーさがあり、これまたいかにもボンヌ・マール側の味。「デリエール・ラ・グランジュはパワフルだけれどあまり上品ではないと思っていましたが、これは筋肉質でも気品がある」。「これはモノポール」。「え?モノポールなんですか。所有者はふたりだと思っていましたが」。「アミオ・セルヴェルのデリエール・ラ・グランジュは実はグリュアンシエールなんだよ。彼はデリエール・ラ・グランジュと呼んでいるし、それはいいけど」。「へえ、初めて知りました。そう言われると確かに彼のワインのほうがソフトで、グリュアンシエールというのは納得です。ところでこのキュヴェは昔はなかったですよね」。「09年から造っている」。「以前のオーナーのワインと比べると、キメの細かさや空気感の軽やかさが向上していると思います。つまり、よりシャンボールらしくなった」。そんな会話をしました。

エシェゾー。スーショとグラン・エシェゾーに挟まれたレ・トルー区画。レ・トルーは普通、もっとシンプルな味だと思いますし、キュっとしたチャーミングさや華やぎに欠けるという記憶ですが、これは違います。今までのどのワインより明るいスケール感があり、形としては横方向に大きいのはレ・トルーらしいとはいえ、レ・トルーらしからぬ垂直性が芯を形作り、私にはスーショに近い味に思えます。素晴らしいワインです。香りの持続力が桁外れです。ですから「マルヌがありますか」と聞くと、「ない」と。レ・クルーにはあるはずので、その斜面下のレ・トルーにはマルヌの成分が流れてきてもおかしくはないな、とは思いました。大学の授業で、コンフュロン・コトティドのエシェゾー、スーショ、ヴォーヌ・ロマネ村名を教材に使ったことがあります。大きさの違いが明確に分かるからです。そう伝えると、「ああ、格付けの上下関係がよく分かる3本だろ」と。

クロ・ヴージョ。例によって、クロ・ヴージョは樽から飲んでおいしいワインではありません。凝縮度の高さは顕著ですし、パワフルですが、固くて小さくて苦い。エシェゾーの開いたおいしさのあとでは困惑してしまいます。「区画はどこですか?」と尋ねると、「シャトーの横」。クロ・ド・ヴージョは偉大な畑ですが、どこか一か所の区画だけではまともな味にならないのは分かり切ったことです。15年経てばそれなりのバランスにはなると思いますが、スケール感は出ないでしょうし、そもそもイヴ・コンフュロンらしい色気が出るはずもないクリマです。

マジ・シャンベルタン。ブラックプラム、バラ、八角、黒コショウ、なめし皮といった複雑で強い香り。むせるような強さです。タンニンは粒々して硬質で、ワインが口の中の粘膜に穴をあけて入り込んでくるような、ある種の暴力性を感じます。しかしこれも色気がない。崇高性は痛いほど分かるが、親密さゼロで感情移入不可能。スケール感は巨大で、四角い味がどすんと口の中を占拠して動かない。硬質ですが、ニュイ・サン・ジュルジュのように表面がツルっとしているのではなく、砂岩の大聖堂みたいに逞しい、厚みとテクスチャーのある硬質さ。マジらしいといえば確かに。しかし多くのマジは、もっとつまらなくて粗いワインだと思います。

ここでブラインドで一本ワインが出されました。ちょうど飲み頃で、しっとりと開いた、マルヌの味がする赤系果実と花の香りの気品あふれるワインでした。タンニンはソフトで酸は穏やか。スケールは中程度ですが垂直的で、下にしっかりと沈み、上に華やかにのぼります。これを飲んで、「そういえば、コンフュロンさん、さっきスーショを試飲していないではないですか」と言いました。出されたワインは、2007年のヴォーヌ・ロマネ1級スーショでした。スーショは、たぶん、コンフュロン・コトティドの最高傑作です。いろいろな意味で、彼にぴったりのクリマです。本当はロマネ・サン・ヴィヴァンと、エシェゾー・ド・ドュスと、ボンヌ・マールを作ってほしい。スーショの方向性の拡大版ですから。そこで2016年のスーショを樽から試飲しました。07年よりむっちりしたボディ感があるのは2016年らしいところですが、決して鈍重にならず、くっきりしたマルヌの酸が好ましく快活なメリハリをつけ、香りも熟していながら軽やかにフローラルです。

彼はそのあと唐突に、「コルトンに興味があるのだけれど、コルトンについてどう思うか」と聞いてきました。私ごときに意見を求めるとは、やはりイヴはものずきです。

コンフュロン(以降YC)「最近は多くの人がコルトンを造っているが、素晴らしいと思えるコルトンを飲んだことがない」。

田中(以降KT)「ええ、メオ・カミュゼとか、DRCとか」。

YC「畑のポテンシャルはあると思うのに、どういうわけなんだ」。

KT「それはコルトンがクロ・ヴージョと同じく、ひとつの区画ではまともな味にならず、全体でひとつの完成された味になるようなクリマだからです」。

YC「ああ、それは分かる。それにしても、だ」。

KT「あなただから特に言えると思いますが、おいしいコルトンの赤を造るためには、斜面上のマルヌの区画が最も重要です。皆あそこにシャルドネを植えてしまうのが問題なのです。石灰岩のブレッサンドとかぺリエールとかは単一区画ではどうにもならない味です。コルトンの丘の全部のブレンドと言っても不可能な話ですから、まだ可能な範囲で理想を言うなら、ランゲットとプージェあたり、真南を向いた区画の斜面上から下まででワインを造るしかありません。それを基本として、ヴィ―ニュ・オー・サンの柔らかさ、フルーティさと重心の下の部分の安定感を加え、アン・シャルルマーニュのすっきり感をアクセントに加え、あとはほんの少しブレッサンドで真ん中の部分の厚みを補って他の要素をつなぎ留めれば最高です。もうひとつの問題は、皆コルトンを誤解していることです。コルトンは逞しいワインではありません。それはポマールにも言えることです。あなたは分かっているでしょう」。

YC「ああ、ポマールを造っているからね」。(彼はポマールのクルーセルの醸造コンサルタントでもある)。

KT「多くの人はリュジアン・バとリュジアン・オーでは前者が優れていると言いますが、私は逆で、リュジアン・オーのほうがいいと思います。あそこはマルヌです」。

YC「そうそう」。

KT「だからランゲットのような上部の区画のピノが大事なのですよ。皆勘違いしてコルトンがごついワインだと思っているから、まさに多くのポマールがそうなように、皆抽出を強くしすぎてエグいワインを造ってしまう。それはテロワールが悪いのではなく、テロワールの認識が間違っていることから生じる問題です」。

YC「そうか、最近はみな一週間しかマセラシオンしないではないか。あんな薄いワインはいやだ」。

KT「一週間のマセラシオンはコルトンには正しいのです。問題は収量が多くて早摘みなことです。あなたのように低い収量で遅摘みなら、短いマセラシオンでコルトンを造るべきです」。

 しかし現実には、どんなにお金があろうと、ルナルドやブレッサンドやぺリエールあたりの小区画を買うのでせいいっぱいでしょう。ましてもともと小さなランゲットなど不可能です。だとすれば、コルトンだけ造るネゴスでも立ち上げるしかありません。そうすればあちこちの区画から少しづつブドウを買ってコンプリートなコルトンを造る可能性も見えてくる。ただイヴ・コンフュロンは、「最近はドメーヌがどこもネゴスを作ってビジネスを拡大している。2010年から2016年までの低収量が続いた7年は、皆そうやって売り上げ規模を維持した。しかし僕はそういうのはいやだ」と言っているので、無理でしょう。ですから結論は、コルトンに色目を使うな、です。

 樽の横のラックに入っている瓶を見ると、ベカー・ヴァレーのレバノンワインでした。それが何かと尋ねると、「Vertical 33。自分がコンサルタントをしている。今度ピノ・ノワールも造る」。おお、それはすごい話です!

KT「レバノンのピノはポテンシャルがあります。サン・トマのピノを飲みましたが、素晴らしかった」。

YCVertical 33ではいまサンソーとカリニャンを造っている」。

KT「それは正しい品種のチョイスです。現在のレバノンはカベルネとかメルロとか植えていますが、あれはダメです」。

YC「最悪だね」。

KT「南フランスにサンソーはたくさんありますが、ロゼはよくとも赤ワインはどれもタンニンが固くて泥臭いでしょう」。

YC「南仏ではサンソーは熟さない。レバノンでは熟す。カリニャンもそう」。

 そのサンソー・キュヴェ・ブルータルを飲んでみましたが、もういかにもコンフュロン。熟した赤系果実とくっきりした酸と強いが繊細なタンニンは、その前に飲んでいたスーショの連続として違和感なく飲めます。畑は標高1000メートルから1600メートルですから、昼夜の気温差は極めて大きく、熟しているのにすっきり、というコンフュロンらしさは自然と得られます。私はずっと、レバノンワインはサンソーとカリニャンがいいと主張しています。なかなか賛同者がいない中、イヴ・コンフュロンが同じ考えだと知って嬉しくなりました。次にレバノンに行ったら絶対に訪問したいワイナリーがVertical 33です。

 

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