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2018.02.20

ボルドー、Chateau Lafon Rochet

 2010年ヴィンテージにビオディナミを導入しはじめたシャトー・ラフォン・ロシェを、翌年のボルドー・アン・プリムール・テイスティングで試飲した時の驚きは忘れられない。それまで荒々しくて角が立って抜けが悪かった、ゆえにお世辞にも好きとは言えなかったこのシャトーの味わいが、一挙にほぐれ始め、清涼な空気を孕んできたからである。その時、頑迷なまでに本質的な変化を拒絶してきたボルドー左岸格付けシャトーに新しい波が寄せていることを実感した。それはまださざ波でしかなかったが、押し寄せる水の流れを食い止めることはできないと知っていた。

 次にシャトー・ラフォン・ロシェに感激したのは2010年のロゼだった。ロゼはタンニンがほとんどないぶん、構造をタンニンに依存することができない。しかしそのワインは見事な構造があり、強いミネラル感に支えられていた。土の状態がよくなっていることがはっきりとわかった。

 そして昨年末のユニオン・デ・グラン・クリュの試飲会。ここで2014年をテイスティングし、2013年までとは次元が異なる完成度のワインになったと知った。もちろん2014年というヴィンテージじたいの素晴らしさは否定できないにせよ、2013年に畑を実質的にオーガニックに転換した効果は歴然だった。

 訪問せねばならない。そう思っていた。ジャン・クロード・ベルエと会う前、「私はオーガニックのボルドーに興味があります。あなたがコンサルティングしているシャトーでお勧めなところにアポを入れていただけませんか」と依頼した。返ってきた答えが、シャトー・ラフォン・ロシェだった。このワインの背後に彼がいたとを初めて知った。

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▲シャトーの前庭には日の丸が掲揚されて出迎えてくれた。当主ミシェル・テスロン(後姿)のあとについて見学に行く。



 ラフォン・ロシェの畑は内陸にある。シャトー・ラフィットの飛び地やシャトー・コス・デストゥールネルの西隣である。内陸のサンテステーフらしく、畑の表面を覆う砂利のすぐ下には石灰岩やマルヌが存在している。表土じたいにも石灰の礫が散見される。緯度が高いから気温は低く、収穫時期は当主の子息バジール・テスロンによれば、「グラーヴより一週間から10日遅い」。さらには海に近いから降水量も若干多いはずだ。しかし植えられるブドウの57%はカベルネ・ソーヴィニヨン、4%はプティ・ヴェルドである。どのようなワインになるかは考えただけで分かる。最悪の場合、固い酸と粗いタンニンと青い風味の、粗野なワインである。バジール・テスロンも醸造長のルカも、揃って「リュスティック」という言葉を使った。実際、かつてはそうだった。

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▲シャトーの窓から眺めるブドウ畑。

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▲ラフォン・ロシェはラフィットの北西、コスの西にある。

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▲ラフォン・ロシェの畑の断面図。西側スロープは地中すぐに石灰岩だ。

 “ジュラ紀のアルザス”に関する論考において、好適とされてきた暖かい砂岩や片岩より、不適とされてきた冷たい石灰岩やマルヌのリースリングのほうが最近では好ましい味だと思われることが多くなってきたと述べた。かつての低温がいまの適温、かつての多雨がいまの適切雨量となるこの地球温暖化の中で、ボルドーでも以前と同じロジックが通用するとは限らない。サンテステーフはいまや不遇の時代を過ぎた。気温が低いエリアの夜間の気温が下がって酸が増える内陸の石灰を含む畑のカベルネ・ソーヴィニヨンは、びしっとした垂直的な骨格と引き締まった体躯というボルドー左岸らしい個性を、今では顕著に表現するようになったのだ。

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▲コンクリートタンクはいろいろな形をしている。これはおもしろいアイデアだ。ステンレスタンクも磨き上げられているし、醸造所の中はどこも恐ろしくきれいだ。



 バジーレの到着を待つあいだ、当主ミシェル・テスロンの案内で醸造所を見る。目をひくのは2015年に新設されたコンクリート・タンクだ。以前はステンレスのみだった。あとでベルエに聞くと、「それは私のアイデアだ」。もちろん内部にエポキシ加工は施しておらず、シャトー・ペトリュースやシャトー・ラフルールと同じである。それも通常の直方体ではなく、不思議なカーブミシェル曰く、「コンクリートだとどんな形のタンクでもできる」。直方体は直方体の味に、フリーフォームはフリーフォームの味になるだろう。四角四面の味になりやすいシャトー・ラフォン・ロシェがこのような形のタンクを導入するには意味がある。さすがベルエだ。

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▲温水、冷水、高圧水、窒素ガスのバルブ。


 常におしゃれなミシェル・テスロン。現在のオレンジ色のシンボルカラーを導入したのは彼だという。シャトーの中も外も独特の美意識が通底するが、それはタンクにさえ表現される。「タンクの下には空間があるのが普通だろう。しかしそこは清掃が行き届かなかったり、そのスペースに物が置かれたりして見た目がきたなくなるのがいやだ。だからタンクの下を覆った」。それも銅板で、だ。「あちこちに4つのがバルブある。温度調整用の温水と冷水、洗浄用の高圧水、マストの酸化を防ぐ窒素ガスだ」。ホースの引き回しを最短距離にし、見た目もきたなくならない、機能的な設計である。資金力のあるボルドー左岸格付けシャトーならではだと思う。

 栽培に関して、彼は「シャトー・ラフォン・ロシェはオーガニックではない」と言う。「基本的にはオーガニックだが銅が嫌いだ。毒だからだ。使用するのはアンチ・ボトリティスだけだが、その薬品はヨーロッパのオーガニック規定では認可されているのにフランスでは禁止されている。おかしな話だ。ともかくオーガニックは難しい。ここでは雨が1000ミリも降るからだ。それでもオーガニックは大事なのだ」。私はプロセスとしてのオーガニック認証に興味があるのではなく、結果としてワインが自然な味がするか否かに興味がある。比喩的な言い方ではあるが、意識、意思、意図、そして結果において、シャトー・ラフォン・ロシェはオーガニックな味がする。

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▲最近の流行り、オプティカル・ソーティング・マシーン。ミシェルに「なんでどれもこれも機械はイタリア製なのか」と聞いたら、「これはもとはフランスが発明したがイタリアが安く大量に作っただけだ」と。
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▲やまぶき色と、その補色の紫色で塗られたセラー。



バジーレが到着する。シャトーの内装カラーと同じ色の服を着ている。親子そろっておしゃれに気を遣う人なのだ。樽熟成庫の中で彼は、「亜硫酸添加量を減らす方法として、樽の硫黄燻蒸の代わりに特別な紫外線ライトを開発し、それを樽の内側に入れて紫外線を照射して殺菌するようにした」と言う。「なんと革命的なアイデア!」と驚くと、「新しい方法ではないよ。昔から人間は殺菌するときに太陽の光に晒してきたではないか。紫外線の殺菌効果をずっと使ってきたんだ」。考え出したのは醸造長のルカ。2017年ヴィンテージから採用したという。格付けシャトーは実験室のようなものだ。そのライトの製造にいくらかかったのかは分からないが、少なくともここでは、ちょうど車の世界におけるフォーミュラ1と同じく、お金がなければできないことをしっかりと行っている。お金は正しい方向に使われれば、人類全体の文化・文明の向上に役に立つ。

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▲バジーレがオークの風味を弱めてワインの純粋さを強めるべくこれから増やす予定なのは、このオーストリア、ストッキンジャー製の1000リットル容量大樽。

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▲テイスティング用に並べられたワイン。以前のヴィンテージは好きではないことが分かっているから開けるだけもったいない、と言った。


バジーレと醸造長のルカ・ルクレルクと共にテイスティングする。テーブルには2010年から2015年までの瓶が並んでいたが、私は「2014年以降だけでいい。2014年からは別物になったから」と言った。2012年と2013年は開けたものの、前者は水平的でべたっとして粗い昔風の味。後者はオーガニックらしく垂直的になったが動きがなく小さい。ルカは「2013年はダイナミックではないか」と言ったが、私は「いや、コヒーレンスとフォーカスがない。ミッドの部分に注目してほしい。上と下の存在感とコントラストは大きくとも、それらをつなぐ骨格が弱く、ミッドが空白化しているではないか」と。そのあと話をしているあいだ、彼らのグラスの減り具合を観察していたが、それらのワインはあまり減らない。無意識だろうが、人間の反応は素直なものだ。そして2014年は、日本で飲んだ時と同じ方向性だが、その美点がさらに開花し、混濁感が払しょくされて軽やかな気配が広がる見晴らしのよい味。このヴィンテージのセカンドワイン、ペルラン・ド・ラフォン・ロシェがまた素晴らしい。メルロが多く、樽風味が軽く、熟成期間が短いこのワインは、果実じたいの質のよさがグラン・ヴァン以上によく分かる。緻密で、垂直的で、妙な凹凸がないために流れが滑らかで、すっと胃袋におさまり、鼻へと抜ける。そして2015年は、ヴィンテージのよさだけではなく新しい醸造所の多大な貢献が感じられる、ダイナミックで桁外れにスケールが大きく厚みがあっても風通しがいいフォーカスの定まった味。この数年の品質向上は著しい。新しいヴィンテージを飲むと、以前のワインが飲めなくなる。だから極端なことを言えば、今のシャトー・ラフォン・ロシェは熟成させる必要はない。若いうちからおいしいし、熟成させているうちにもっとよいワインが登場するからだ。試飲はしなかったが、「2016年は今まででベスト」というから、楽しみだ。

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▲バジーレと醸造長のルカ。ルカはブルゴーニュ出身でDRCにいたそうだ。「ならばDRCはもっとおいしくなるはずだと分かっているでしょう」と聞くと、「その通り。ロマネ・コンティは早く収穫しすぎる。本来ならあんなものではないはずだ。ラ・ターシュとリシュブールは逆にちょっと遅すぎる。ド・ヴィレーヌは僧侶みたいなものだから」。テイスティング・グラスは結局ザルトから昔ふうのグラスに戻した。



テイスティング・グラスは最近はやりのボウル部分の側面が直線のデザイン。それを見て私は、「このグラスはおいしくないからいやだ。見ためはいいが、ミシュラン星付きレストランででも使っていればいいのであって、ワイナリーが使うものではない」と言った。私は自宅から持参した、日ごろはご飯茶碗として使っている木のお椀で飲んでいた。当然ながら縦彫りのお椀だ。すると彼らは目を輝かせて、「やはり君もそう思うか。ステムが細くていいかなと思って買ってみたが、今では昔のタイプのグラスのほうがよかったと思うようになって、ちょうど新しく買いなおそうと思っていたところだ」と言い、奥から以前に使用していた普通のチューリップ型のグラスを持ってきた。この話からしても、シャトー・ラフォン・ロシェが私と、また私の意見に同意してくださる方々と、同じ感覚を持っていることが分かるだろう。

「素晴らしいワインだが、全体に閉じていて本調子ではない。今日はビオディナミで言うところのなんの日ですか」と聞くと、「根の日だ」。私は「では私はフルーツの日の味に近づけるようにします」と言って、あることをした。飲んでもらうと彼らは「フルーティで甘くなった」と言う。最近のワインはナチュラルな造りになっているから、花、フルーツ、葉、根のそれぞれの日の影響を強く受ける。本当なら前二者の時にだけワインを飲めばいいが、それでは商売ができない。いまひとつおいしくない葉や根の日に試飲した人がそのワインを「青臭い」(葉の日の場合)、「泥臭い」(根の日の場合)といって誤解し、買わないということも大いにありえる。どうすればいいかといえば、1、やはりよい日にだけワインを飲む。2、よい日の味に近づけるようにする。3、飲む側が頭の中で味を調整してよい日の時の味を想像して評価する。しかないのであって、2の方法を考えることは商売の上からは必要なことになってくると思う。

するとバジーレは、「こうすると味が変わるんだよ」と言い、2015年ヴィンテージのワインが入ったグラスに手をかざし、気を注入した。ただ注いだだけのグラスのワインと比較すると、恐ろしく違う。ワイナリーのオーナーが気を入れたワインは、タンニンが細かく、酸がピノ・ノワール的にビビッドになり、香りにフローラルな要素が増え、全体に緊張感がほぐれ、さらに空気感を増し、足取りが軽くなり、楽器で譬えるならヴァイオリンからフルートになったかのようだ。根の日のワインの暗さと重たさが少なくなり、花の日の味に近くなった。これが彼の考えるシャトー・ラフォン・ロシェの味なのかと驚いた。

「皆さん、これは本当に素晴らしいワインですし、今まで私が飲んでいたシャトー・ラフォン・ロシェはいったいなんだったのかと思うほど違います。しかしあなたがたのワインは世界じゅうで毎日飲まれている。それらのワインが本来のシャトー・ラフォン・ロシェではないとすれば、生産者の責任はどうなりますか。誰が今あなたが気を入れたワインを飲めますか。この味を知っている人はごくわずかでしょう。オーナーが直接気を入れなければいけないようでは、まだ生産者の仕事が終わっていないのです。もちろん完璧な再現はできないにせよ、誰がどこで飲んでもこのような味を経験できるようにするためにはどうすればいいかを考えねばなりません。他で飲むと、ラフォン・ロシェはもっとウッディな風味がするでしょう」。私がそう言うと、ルカは、「確かにヴィネクスポであれなんであれ、シャトーの外で飲むラフォン・ロシェは、ウッディというか、そうだな、シーダリーというかサイプレスというかの味だし、もっとハーブっぽい」。「分かっているじゃないですか。それでいいと思っているのですか。なんとかしなさい」。私はそこである方法を考え、伝えた。「ああ、それはいいアイデアだ。今度実験してみよう」。「まずは問題意識をもちましょう。消費者のもとにあなたが思っているような味を届ける責任を自覚しましょう。そうすればこれからあなたも自分でいろいろな解決策を思いつくでしょう」。

目的が明確ならば、どうすればよいかは皆で考えればよい。目指すゴールが不明瞭なら、いくら舟を漕いでも右往左往するだけで徒労に終わる。バジーレが気を入れたワインの味は明快なゴールである。私は初めてシャトー・ラフォン・ロシェの羅針盤を得た。シャトーを訪問し、オーナーや醸造家が考えるワインの味を経験することの意味は巨大なのだ。

この経験は多くのことを考えさせられる。人間の気は確実にワインの味を変える。そう意識しなくても個人個人は別の存在であり、固有のエネルギーをなんらかの形で放射し、それが周囲のものに影響を及ぼす。ワインを自然が命じるままの味にして提供する、などと言う人がいるが、なんたる傲慢なのかと呆れる。そのような味がなんなのかをその人が知っていると間接的に言っているわけだが、それを知るのは神のみである。神域に達する超越的な能力を持っているとしてもその人は神ではない。シュタイナーでさえ自分が神であるとは言わない。人ができるのは、自然が命じる味とは何かを考え、それをどうすれば具現化できるかを考え、行動するだけである。結果としてあらわれるのは、その人が考えてつかみとった本来の味の個的なイメージであって、本来の味そのものではありえない。

同じ銘柄のワインであれ、ある個人が飲んでいるのは、その人にとってのワインだ。他の人が触ったワインを飲めば、自分が触ったワインとは違う味なのに誰もが気づく。本来の味だと主張する人の味も、他者が飲めばやはりその人の味だ。その人の影響下にあるワインはどれも似たような味がする。しかしそれは自分の体臭のようなもので、自分では気づかない。それをもって、私は体臭がない、と言えるだろうか。本来の味だとストレートに言う権利があるのはそれを造った人間だけであって(それでもそれが本当に本来の味かどうかはまた別の議論だ。作家が作品の意味を自覚していないことがありえるではないか)、それ以外の人が言うべきは、これが私にとって本来の味だと思う味です、だ。もちろん私が触ったワインは私の味がする。私が私である以上は、私はなくならない。無になる、という言葉は言えるが、それは姿勢を表す言葉であって、そしてそこには意味があるのだが、それでも無そのものにはなれるわけがない。有であること、有限であること、個であること、しょせんは小さな人間という存在であることは不可避だと認めた上で、では私は何をどう思うのかを外に向けて提示し、そこから複数の人間のコミュニケーションを通じて一歩一歩正しい道へと歩もうとすることが大事なのであって、「私は真理を知っているがあなたは知らない。ゆえに私は優れておりあなたは劣っている。ゆえに私が注ぐワインは真実在であってもあなたが注ぐワインは欺瞞にして虚偽である」と思うことは、人間として間違っている。

以前、エルヴェ・ジェスタンと話していた時、彼は「私は私の味があるとは思わない。それぞれのワインじたいが望むことを助けるだけであり、それぞれのワイナリーが望むことを助けるだけであって、私自身は何もしない」と言った。私はこう言った、「理念としてはその通りで、完全に賛同します。しかし理念と事実は違います。第一に、あなたの味は存在していて、どれも共通してあなたの味がします。あなただけでなく、コンサルタントなら誰でもそうです。他人が見れば分かります」。その前に彼と食事をしていた時、日本ではなぜかやたらと持ち上げられる某シャンパーニュ(ジェスタンとは無関係なもの)を一緒に飲んだ。まあ正直たいしたことがないワインだったので、彼もあれこれ批判していた。彼がトイレに立った時に、こっそり彼のグラスからワインを飲んでみた。そんな無関係なワインでさえ、彼のグラスのワインは、私とは明らかに違う、彼自身のワインに似た、あの独特の底支えするような強さとエッジ(ないしディフィニションというべきか)のある味になっていた。それをどう説明するのか。無意識でさえそうなるのだ。そしてそれは、今まで何十年にわたって経験してきたことなのだ。パカレはパカレの味に、ジョリーはジョリーの味になる。

続けて言った、「第二に、それぞれのワイナリーの味があるということは、無の味はないということの裏返しです。第三に、人間は何もしないことはできません。何もしないということさえ、何かをしたということです。無為自然そのものにはなれず、無為自然を理想として意識的に生きるだけです。そもそもビオディナミは何もしないことではなく、正しいことを行うということではないのでしょうか。それでも何が正しいのかは神ではないのだから絶対には分からない。あなたが偉いのは、何もしないからではなく、正しいこととは何かを真剣に考え、その正しさを実現する方法を他人にも分かるように考え、実行し、結果として飲む者もまた何が正しいのかを考えることができるようなワインを造ってきたからです。それは無ではなく、意識的な有の最上の形です」。

ルドルフ・シュタイナーは『農業講座』でなぜあのように事細かい具体例を延々と述べるのか。あれは、何をせよ、という話であって、何もするな、無になれ、という内容ではない。自然との共生。世界の平和。素晴らしいことだ。そこには議論の余地はない。しかし掛け声だけで実現できるのか。どうすればできるのかを考え、実際に行動しない限りは、ビオディナミであれなんであれ、現実のものとはならず、現実のものとはならねば世界は救われない。    私はこれをこう考えてこのようにしました、と表明すれば、第三者はその前提と結果の因果関係を検証し、複数の人間による共同作業として次なる発展につなげることができる。実際は何かしているのに何もしていないと言えば、その行為は検証不可能性の森に隠れることになり、その人は不可知の領域へと自らを置くことになる。それは自らの神格化である。それはその人には都合がよく、最も安全であり、なおかつ決定的に無責任でいて最大の権力を行使できる立場となる。仲間由紀恵に登場してもらって「すべてお見通しだ!」と言ってもらう必要が出てくる。だから私はエルヴェ・ジェスタンに「あなたが危惧するように、あなたの名前をシンボルにする人は間違っています。それはあなたの意図と正反対な結果を生み出すからだ。そうならないためには、あなたは何もしないと言ってはいけない」と言った。

人が何もしない時に、最もその人の影響をワインは受ける。なぜならその人の思考や感情が制御なくだだ漏れしているからである。ある会で私がコメントしている時にある人だけ首をかしげていたので、「ちょっとあなたのグラスのワインを飲んでみていいですか」と頼み、口をつけてみると、とんでもなくひどい味がした。「あなた、今日ここに来る前に何かありましたか」と聞くと、「ええ、ちょっと家で大変に困ったことがありました」と言う。当人は意識しているわけではないが、そして意識していないからこそ、その困ったことから生じたネガティブな気持ちがワインに入り込んだのだ。他の場でも似たようなことがあり、どうしたのかと聞くと、「さきほど健康診断の結果が分かって大きな問題が見つかりました」と言う。漫然とワインを飲んでいるからそうなるのだ。漫然と飲むのと同じぐらいしてはいけないことは、お金について考えることである。あるビオディナミ生産者はある商人と目の前のワインに集中することなくお金を話をしていた。ワインがまずかったので、「ワインを前にしてお金を話をするのはやめなさい」と私は怒ったことがある。そのあとは通常の味に戻った。マタイによる福音書第六章にあるとおり、「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。ワインはキリストの血なのだから、それが神に仕えるためのものなのか、富に仕えるためのものなのか、問うまでもない。

人間は無ではなく、その人の思考・感情がワインに投影されてしまうのだとしたら、どうすればいいのか。何かに集中することで雑念を遮断する以外にない。なぜ禅の修行で公案が存在するのか。密教においてなぜ阿字観が必要なのか。そのような具体的な例を言わずとも、我々人間は、世界じゅうで、ある最高の方法を考え出し、実行している。それが祈りである。祈っている時には雑念は消える。

だからワインに対して飲む前に何をせねばならないかと言えば、祈ることなのである。どの神に祈るのかは関係がない。私はキリスト教国のワインには、キリスト教の神に祈るのが筋だと思うので、例えばこのように祈っている。「天にまします我らの父よ。このような機会を与えてくださりありがとうございます。あなたのお力と愛をワインを通してお示しくださり、我々をより正しい道へと導いてくださることをお願いいたします。アーメン」。

話がずいぶんと遠いところに来た。あれこれ考えざるを得ないほど、バジーレ自身のグラスのワインは衝撃的な味がしたからだ。今日セカンドワインを開けたが、その時私は到底無になることはできなかった。そう思わずともおのずと思い描いてしまったのは、もちろんバジーレのあのしなやかで気高く香り高いワインだった。

 

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