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2018.07.14

ヴィーニョ・ヴェルデ・テイスティング・ディナー

 数年前まではヴィーニョ・ヴェルデは書籍の上でしか知らなかった。今では少なくともプロのあいだではヴィーニョ・ヴェルデは基本アイテムのひとつだ。2014年の対日輸出量170702リットル、金額398112ユーロに対して、2017年は315664リットル、822424ユーロ。ヨーロッパから日本への輸出が全体として水平飛行か下降気味なのに対して、4年で二倍という伸びはすごい。いま最も人気沸騰のワインは何か、と問われたら、多くの人がヴィーニョ・ヴェルデと答えるだろう。

 なぜそんなに人気なのか、分からない。周囲からは絶賛の声しか聞こえないのでここ何年か試飲会にはできるだけ参加して100本ほどの少数とはいえヴィーニョ・ヴェルデを飲んでみた。ロゼや赤はなかなかおもしろいとは思ったが、忘我陶酔の境地には至らず、白に至っては、普通によくできたワインであるという事実以上は分からなかった。

 

だから赤坂の和食店『茜坂』でのヴィーニョ・ヴェルデのテイスティング・ディナーに招かれた時は心底ありがたいと思った。和食と合うと言われている、そしてそのようにPRしているワインを、数年ぶりに食べる和食のコースに合わせて実際に試してみることができるからだ。

品書きは以下のとおり。

先付 大葉豆腐

御椀 牡丹鱧

造り 蛸

焼物 仁淀川天然鮎塩焼

煮物 賀茂茄子おろし煮

強肴 平田牧場金華豚西京焼き

食事 もろこし御飯トリュフかけ 赤出汁 香の物

水菓子 パイナップル

 食べてすぐに東京の味だと思った。板長さんは関東のご出身ですかと聞くと、東京だという。東京の味は玄武岩っぽい。関西の和食は花崗岩っぽい。エッジ感のある東京味はヴィーニョ・ヴェルデには好都合だ。花崗岩土壌主体の産地のワインではあるが、ふっくらした味ではないからだ。

 いろいろな種類のヴィーニョ・ヴェルデが出てきたが、基本、どれも重心が上、流速が早い、味の中心密度が薄い、固い、旨みが少ない、広がりがない、酸が高い、余韻が短い、性格が地味。今までの印象と同じだ。しかし和食は、こうしてヴィーニョ・ヴェルデと比較してみるとよく分かるが、ワインよりも相対的に重心が下、流速が遅い、中心密度が高い、柔らかい、旨みがある、スケールは小さいがそこからの広がりがある、酸がないに等しい、余韻が長い、性格が意外にも派手(京都的というか)、だ。

 ワインと料理を合わせてみても、接点が少ない。ワインも料理も単独ではおいしいが、合わせた時に1+1=3にならない。なにをもってヴィーニョ・ヴェルデが和食と合うというのだろう。もちろん会に参加されていた他の11人のジャーナリスト諸氏は「合う」と口々におっしゃっていたし、彼女ら(全員女性だ)の美食的経験値や知識と比べれば私など赤子のようなものであるから、これを読まれている方々は私の意見は無視していい。しかしそれでも私には赤く見えるものは他の全員が青いと言ってもやはり赤いのであって、そこで嘘をついては私自身を裏切ることになるし、ジャーナリストとしての責任もない。この会の進行役・講師役を務められたポルトガルワインブームの先導者(オーストリアワインの権威でもあられる)、別府氏の言葉を借りれば、「料理とワインをバチバチ合わせなくともヴィーニョ・ヴェルデは無理なく飲める」とのこと。味が薄いからあってもなくても同じ、といった消極的な意味なのだろうか。二つのものを口に入れれば必ず味覚的化学反応を起こす。味が薄いほう、アルコールが低いほうが合わせやすいわけではない。合う合わないはもっと複雑なものだし、いかに消極的に安全な方向に飲み手が逃げようと思っても料理は見逃してくれず、ワインはそもそも逃げようとしない。そして逃げるつもりなら、もともとマリアージュなどするな、レストランの美的価値創造性の意味を軽んじるな、と言いたい。

 全料理と全ワインについてどうして合わないのかの理由を列挙してもそんなものは自分でも読みたくないので、ひとつふたつだけ例を挙げる。ヴィーニョ・ヴェルデは重心が高く、和食は重心が低い場合、ワインは料理の風味の上にのしかかり、蓋をすることになってしまい、料理がシンプルでまずく感じられる。そして最後まで上下分離して両者は溶け合わない。ヴィーニョ・ヴェルデは余韻が短く、和食は余韻が長い場合、ワインは料理の時間軸上の中間部分だけに干渉し、その部分の味を変質させるが、そのあとワインだけが消失し、料理の味だけが再び出現することになる。これは料理の味の時間軸上の調和と進行を完全に乱し、料理の理解を妨げる。そして最後は料理の味だけになるなら、ワインはなくてもいいということだ。それでも飲むならアルコール依存的消費である。そのような消費様態はワインについては不適切であるというのが私の基本的スタンスである。

 

 昔のヴィーニョ・ヴェルデのように、弱発泡・ソフトな質感・クリスプな酸のシンプルなワインで、水がわりのコモディティー飲料だという認識ならば、それ以上の議論は必要ない。つまり、ヴィーニョ・ヴェルデは“ヴァン”なのだという定義ならば、料理に合う合わない、つまり“ボン・ヴァン”としての価値の吟味は筋違いとなる。

 ところがここでのテーマは、「和食に合う」なのであり、“ボン・ヴァン”であることが前提となる。命題が与えられているなら、それの真偽性を検証するのが我々の責任である。

 別府氏が言うには、ヴィーニョ・ヴェルデは「高品質化」を推し進めている。ヴァンからボン・ヴァンへの移行を産地として目指しているようだ。それはいろいろと試飲しても感じることである。

ヴィーニョ・ヴェルデの高品質化とは、遅摘み、小樽の使用、シュール・リーを意味するようである。まるでどこかの産地で昔聞いた話のようだ。遅く摘んでブドウの糖度を上げれば高品質になるのか。なるとしたら、品質は糖度と比例するという往年のドイツのような品質の定義を行い、それが広く受容されるならば、である。しかしそのような定義を現代に行う者はおらず、そのような性質は我々がヴィーニョ・ヴェルデに望んでいるものでもない。バリックを使えば高品質だと思うような単細胞な消費者もいまや少数派だろう。フレッシュさが失われて酸化熟成風味に代替され、もともと弱めの品種の香りが樽の香りの陰に隠れてもなお我々はヴィーニョ・ヴェルデを飲む積極的な意味を見出しうるのだろうか。シュール・リーをすれば旨みや粘り気は増すかもしれないが、香りの伸びや華やかさや味わいの抜けのよさを確実に失う。どちらが大事なのか。

ヴィーニョ・ヴェルデとは何なのか、どうあるべきなのか、その議論がないまま、「いま流行りのヴィーニョ・ヴェルデ!トレンドに遅れないようにしよう!」的な強迫観念を流布させることがヴィーニョ・ヴェルデの将来のためにいいことなのか。どれもこれもナタデココのように消尽してしまう我々日本人の癖は再考されるべきだ。

もちろん日本人が日本国内で議論しているだけでは生産者と意識の共有ができない。彼らが正しい方向に進むためには我々がその方向を示さねばならない。しかしそれはある意味簡単な話なのであり、別府氏がヴィーニョ・ヴェルデ生産者の総会においてある種の一般教書演説をすればよい。彼に能力があることは知っているし、彼の意見には同意することも多い。あとは彼が彼自身の責任をどの程度自覚しているかの問題だ。

 

 改めて問いたい。ヴィーニョ・ヴェルデはヴァンなのかボン・ヴァンなのかグラン・ヴァンなのか。ベーシックなヴァンとして水がわりの欧州最廉価ワイン的なポジションを維持しても間違いではないとは思うが、そしてそれも大事な役目だとは思うが、産地がそこから別のところに行きたいと思ってこのようなプロモーションをしている以上は、彼らの考えを無視するわけにはいかない。

グラン・ヴァンだとは皆思っていないだろう。私はヴィーニョ・ヴェルデに行ったことがないので、そのテロワールを見てグラン・ヴァンを生み出しうる何か特別な力がそこに宿っているか否かについて語ることはできない。そこに偉大なテロワールがあることを期待するだけだし、それがワインの形になることを願っている。

ボン・ヴァンだとは思っている。しかしそのためには何の役に立つのかの明確な指針が欲しい。少なくとも今回のマリアージュでは「和食のためのワイン」という指針ではない。世界じゅうのワインが「和食に合う」と自らを喧伝する。ソウルに行けば「韓国料理に合う」、上海に行けば「上海料理に合う」と言っているのだろう。そのような八方美人的・十把一絡げ的な発言は信用性がない。そして和食といっても多様だ。すべての和食に合うとするなら、和食の大半に共通する本質的な分母を抽出し、ヴィーニョ・ヴェルデの大半に共通する本質的な分母を抽出し、両者のあいだに説得力・妥当性のある相似を見出さねばならない。それができないならば、どのような料理のカテゴリーに対してどのようなヴィーニョ・ヴェルデがどのように合ってどのようなおいしさを生み出すのかを明らかにするべきだ。さもなくば単なる雰囲気的な掛け声に終わって消費者を惑わすだけだろう。

しかし料理と合わせるだけがボン・ヴァンの役目ではない。たとえばクリュではないコート・ド・プロヴァンスのロゼはボン・ヴァンであろうが、その意味はプロヴァンス的なライフスタイルをサポートし、プロヴァンスが持つカジュアル&ラグジュアリーな文化的価値を伝達することであって、プロヴァンス産のホウボウやスズキに合わせることではない。ヴィーニョ・ヴェルデを「ある料理のためのワイン」と定義してもいいが、プロヴァンス・ロゼにならって「あるライフスタイルのためのワイン」として訴求する方法をもっと考えてもいいだろう。

ではどういうライフスタイルなのか。どういう文化的価値なのか。ポルトガルという国に特別にポジティブな感情をもつ人は多い。国を訪れる人は多いし、そうした人は口々にポルトガルを称える。たぶんポルトガルには人を惹きつけるライフスタイル、文化的価値、さらに言うなら精神性があるのだろう。そのメッセージが十分に普遍的であるなら、ヴィーニョ・ヴェルデは極めて有効なメッセンジャーとなり、それがヴィーニョ・ヴェルデをボン・ヴァンとする根拠となる。しかしそれがなんなのか、私は経験がないので分からない。

 

生産サイドに視点を移し、ヴィーニョ・ヴェルデの現状のスタイルと品質に関する問題と解決策を以下に述べる。

1、農薬っぽい味がする。

将来的にオーガニック化すべきだ。それまでは産地全体としてどのようにすればいいかのロードマップを策定しなければならない。除草剤全廃は必須だろう。もちろんそうすれば味わいが複雑になり、料理との接点が増える。

2、単調すぎる。

ポルトガルワインの魅力と傑出したフード・コンパティビリティの理由は混植混醸である。しかしヴィーニョ・ヴェルデは混醸はほとんどなく、複数品種であっても事後的ブレンドが主流だという。さらには近年単一品種ワインブームのようで、味わいはますます単調化にしている。これだけは確かなことだが、単一品種ワインはヴィーニョ・ヴェルデにとってよいことはない。何百ものヴィーニョ・ヴェルデ(認可品種は45もある!)を特定の料理やTPOと厳密に合わせるような人がそれほどいるのか。One Fits Allを求めるほうがいい。可能なら混醸、無理なら3品種以上のブレンドとすべきだ。そうすれば世界のワインの中でも特異なポジションを維持できるし、川を挟んだ向こう側のワインとの差別化も容易となる。また香りに関しては培養酵母の香りが支配的で単調だが、これは技術的に容易に解決できるはずだ。

3、薄い。

軽やかであることと薄いことは違う。軽やかさと密度感をどうやって両立するのかは課題だ。最初は収量がヘクタール当たり70ヘクトリットルぐらいあって多すぎるのではないかと思った。しかし2万1千ヘクタールの栽培面積から生産されるワインはヴィーニョ・ヴェルデとミーニョ合わせて約9千7百万リットル(2017/18のデータ)。普通だ。ではどうして相応の密度を感じないのだろうか。これ以上収量を下げたらワインの販売価格は4000円程度になるだろう。しかしバリック発酵よりも低収量のほうが本質的な高品質化につながるのは確かだ。各ワイナリーがフラッグシップワインを造ることが全体の底上げに重要なのだが、私が夢想するそのレシピは、最上の区画での混植混醸、低収量、オーガニック栽培、コンクリートや大樽での発酵、MLF、熟成させずに炭酸ガスごと瓶詰め、である。

4、発泡について。

昔のヴィーニョ・ヴェルデは炭酸ガスが残っているうちに瓶詰めしてから弱発泡性だったのだろうが、今では大半のワインがガス注入式だという。それでは高級ワインとしての定評は勝ち取れない。スパークリングワインの市場は確実にあるのだから、そしてアルコールが低く酸が高い品種を多くそろえているのだから、プロセッコと同じくシャルマ方式のフレッシュなタイプの発泡ワインとシャンパーニュと同じく瓶内二次発酵タイプのコクのあるタイプの発泡ワインの二種の生産をもっと増やし、それが全体の3割程度を占めるようになっていいのではないか。ただし発泡酒は技術的な難しさや大きな初期投資の必要があるため、村ごとないし地区ごとに集約された発泡ワイン工場を設け、各生産者はそこに原料ワインを持ち込んで商品に仕上げてもらうといったシステムを採るべきだろう。

5、アルバリーニョとアヴェッソに潜む危険。

単体で飲めばアルバリーニョとアヴェッソは濃厚堅牢で素晴らしいワインとなるがゆえに、このふたつの品種に人気が集まるのは分かる。しかしこれらのワインは山の味がする。こちらの方向に行き過ぎるとアイデンティティを失う。そればかりか世界じゅうの同傾向のワインと真っ向勝負になってしまう。アルバリーニョやアヴェッソに何を加えたらよりコンプリートな美がもたらされるかを考えて欲しい。とにかく45色の色鉛筆を持っているのだ。あとは画家の腕次第だろう。

 

それにしても参加12名のうち男性は私ひとり。異常だ。ヴィーニョ・ヴェルデとは関係のない話だが。

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