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2019年7月の記事

2019.07.14

サン・シニャン

 23を数えるラングドックのAOPの中でもとりわけ重要なアペラシオンがサン・シニャンだ。しなやかな上品さ、透明感、熟したまろやかなリッチさときめ細かさの高度な両立といった点で、サン・シニャンはラングドックのみならずあらゆるワインの中でも傑出している。もちろん私も個人的に大好きなワインだ。

 サン・シニャンは広い。13500ヘクタールのコルビエール、10000ヘクタールのラングドック(しかしこれは広域アペラシオンだ)、5000ヘクタールのミネルヴォワに続く、3300ヘクタールという広大な面積。ゆえにワインを見かける機会は比較的多い。ところがそれだけにサン・シニャンは、大量生産系産地なのか、それとも高級ワイン産地なのか、一般消費者にとっては分かりにくい立ち位置にある。

 もうひとつ、サン・シニャンの理解を難しくしている点は、その地質が一様ではないからだ。ラ・クラープならすべて白亜紀の石灰だし、フォージェールならすべてシスト。ところが広大なサン・シニャンは、山はシストや砂岩、そして麓は石灰岩。ジュラ紀か三畳紀か、といった同じ石灰岩の違いでさえ味わいに与える影響は大きいというのはアルザスやジゴンダスの例を見ればわかるとおりだが、数億年の時間差がある山側のオルドヴィス紀と麓側のミオセーンでは、同じアペラシオンでいいのかと不安になる。

 だから山側のベルルーとロックブリュンが独立したアペラシオン制定へと動いているのは理解できなくもない。サン・シニャン・ベルルーとサン・シニャン・ロックブリュンは確かに優れたワインであり、エリアが極めて限定され、すべてシスト土壌であるがゆえに、アイデンティティの確立はしやすい。品質的には両者は十分にクリュに値するし、実際に彼等はクリュを目指している。

 ここで問題なのだが、では石灰のサン・シニャンはシストのサン・シニャンに劣るのか。ベルルーとロックブリュンがクリュになれば、当然それ以外は劣位のアペラシオンだというメッセージになる。それは間違った誘導である。石灰岩のほうがシストよりはるかに多いラングドックでは、シスト優位などありえない考え方。これはサン・シニャンだけの話ではなく、全ラングドックへの価値尺度につながっていく話だ。そもそもサン・シニャンの三分の二は石灰岩なのだから、サン・シニャン全体会議なるものが仮にあったとしても、当然それは否決されるだろう。そして、これが最も重要な点で、石灰岩のサン・シニャンもシストのサン・シニャンもどちらも同じく高品質なのだ。

 ではサン・シニャンらしさというのは、シスト、砂岩、石灰岩の差を超えて、共通に存在するのか。それが今回の講座で確かめたかったことだ。結論は、存在する、だ。サン・シニャンはどれを飲んでも圧倒的な細やかさ、垂直性、流れのきれいさ、姿かたちの整いがある。その個性は数年前より今のほうが明確に、純粋に、表現されていると思う。久しく遠ざかっているなら、現在のサン・シニャンがどれほどのレベルに到達しているのか、試してほしい。生産者たちはさぼってはいない。

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 写真左から順に番号を振るなら、1本目はミネルヴォワ。サン・シニャンのすぐ西隣だ。この生産者は大変に頑張っていて、このワインも樽、タンク、アンフォラと容器を使い分けて複雑さを生み出している野心作だ。ミネルヴォワとしてはレベルが高いし、相応の値段もする。しかし2本目の安価なタンク熟成サン・シニャンと比較すると、参加された方々は全員、サン・シニャンは次元が違う、と言う。余韻や伸びやエレガンスが違う。ミネルヴォワも2本目のサン・シニャンも、イオセーンとミオセーンの違いはあれど第三紀石灰岩の土壌だが、両者はなにか根本的に違う。この2本目の素直さ、ピュアさは本当に素晴らしい。未輸入なのが残念だ。とはいえミネルヴォワはミネルヴォワの個性がしっかりあるので、それを楽しめばいい。たとえて言うならミネルヴォワは牛もも肉をあらびきにしたハンバーグのような味だし、サン・シニャンはラムのひれ肉のローストのような味だ。3本目は2本目と同じ生産者の、サン・シニャンのアペラシオンの外にある畑から。これはバッグ・イン・ボックスや量り売り用の、完全地元消費用超廉価ワイン(1リットル1.7ユーロ!)。沖積土壌らしい。それを私自身が瓶詰めした(もちろんただ詰めたわけではなく、それなりの処置をしてある)。それですら、ミネルヴォワよりも上質というか、サン・シニャンと共通する何かが確実にある。実際、このワインは値段を考えれば信じがたく優れたワインで、素直でおいしい。こんなレベルのワインが200円でできてしまうなら、ラングドックはどれほど恵まれた、素晴らしいポテンシャルをもった土地なのかと思う。

 4本目はロックブリュンのシストであり、5本目は砂岩。それでもサン・シニャンはサン・シニャン。2本目と4、5本目の違いは、1本目と2本目の違いよりはるかに小さい。つまり、サン・シニャンは、ひとつのアペラシオンとしてきちんと成立している。INAOおそるべし。地質・岩石の違いを上回る何かの要因がサン・シニャンにはあるということだ。しかし気候を調べたところで隣接するミネルヴォワやフォージェールと大した違いがあるはずもない。実に不思議だ。この滑らかさ、しなやかさは明らかに海の影響だと思うのだが。。。。

 最後に白2本。サン・シニャンは赤89%、ロゼ10%、白1%という生産比率だから、白は希少。日本で見かけることもない。白のほうが赤よりずっとパワフルで、ごつい。最後の白は珍しくもシスト、砂岩、石灰岩のワインのブレンド。確かに複雑だが、若干バラバラ感がある。それは解決できる範囲だと思う。その欠点を差し引いて考えるなら、単一地質にこだわる必要はまったくなく、むしろこのように3つの地質があること自体をサン・シニャンの特殊性、個性と考え、積極的にワイン造りに生かしたほうがいいと思える。最近はどこでも誰でもテロワール別キュヴェを複数造って商品構成するが、それだけではもったいない。

 

2019.07.05

ギア・ペニン・セレクション試飲会2019

新宿ハイアット・リージェンシーでのギア・ペニン・セレクション試飲会。スペインのワイン評価誌ギア・ペニン(実物は見たことがないが)が選んだ優れたワインが18の生産者ブースごとに並んでいた。生産者も数多く来日。たぶん巷ではスペインワインのテイスティングディナーで盛り上がっていたことだろう。閉場間際に行ったので全部を飲むことはかなわなかったが、ギア・ペニンが高い点数を与えるワインは、概して独特のおしゃれ感、緻密さ、滑らかさがあるように思える。ざっくりワイルド、ではまったくない。いわば超高級ナパ的、現代格付けメドック的。飲んで浮かぶ風景は決してバルではなく、星付きレストランだ。客観的に見れば文句のつけようのない超高品質。ブレがないのも見事。しかし単一指標をもってすると、どれも似た味になっていくのは不可避。そこが難しい。どのワインもそれなりにいい、というのは事実だが、だからといってすべてのワインが同一品質だということにはならない。どうすれば多様な価値観にもとづく多様な魅力を包括的に序列化できるか。私もいつかはギア・ペニンのような評価誌を作りたいと思っているが、いまだ水平的価値観と垂直的価値観の関係性と統合様式がすっきりとは見いだせていない。

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テイスティングした中では、写真のワインがよい。いかにも高級ワインの味。アバディア・レトゥエルタは、点数からすれば単一品種ワインのほうが上だが、私はベーシックなブレンドが一番ディメンジョンがあり、ダイナミックだと思う。単一畑+単一品種=プレミアムワインというのは悪しき傾向だ。それでは一本調子な味になりがちだ。飯田が出していたブースではワインは値札付き。この品質で1300円。たいしたものとしか言いようがない。

 

 

アズマコーポレーションの試飲会

銀座で行われたアズマコーポレーションのカジュアル価格ワインの試飲会。探していたのは1000円台のフランスワイン。チョイスは多くない。薄くて単調なワインではしかたない。アズマの社員の方は、「最近は客単価を上げようと、3000円から4000円のワインが多くなった」と言っていたが、レストランの客単価がそんなに上がっているわけもなく、一般のお客さんのワインへの支出額がそんなに増えたとも思えない。とにかく最近はフランスワインが高い。スペインやポルトガルに流れてしまうのもわかる。

 

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その中でおすすめは写真の2本。ラングドックのプリウレ・フォン・ジュヴェナルのカバルデス2016年(1890円)と、南ローヌのドメーヌ・ラ・ガントランディ・オリヴィエ・キュイエラのVDFサン・レジェ2018年(1540円)。カバルデスは牛肉ステーキ向け、南ローヌは冷やして魚料理にもいいし、豚ひき肉料理にもいいだろう。私は、下半身が弱くて質感の厚みと大きさとパワーに欠けるようなワインは好きではないが、そしていつも言っているように早摘みワインは評価しないが、この2本は大丈夫。価格を思えば、土地とブドウのポジティブなエネルギーがあり、酸とタンニンが熟していてなめらかで、形が立体的で、十分な密度感を余韻まで保つ。本当ならそんなことは常識で最低限の条件だろうと言いたい。しかし現在では大半のプロが早摘みワインを、酸がいい、フレッシュだ、エレガントだ、きれいだ、飲み飽きない、と、誰もが同じ紋切り型の言葉で薄くて酸っぱくて腰高で小さいワインを絶賛するので、世の中そういうワインばかり。困った状況だ。ワインでまず着目すべきは酸ではなく、エネルギー感であり立体感だ。

 

ちなみにかっちりとした酸のあるピクプール・ド・ピネが欲しいなら、アズマのドメーヌ・ド・ラ・グランジェットはお勧め。最近のピクプールは概してソフトで酸が少ない中で、これは希少。値付けは極めて良心的。このドメーヌの畑は石灰が強く、地質年代が白亜紀だからこういうかっちりとした酸になるので、早摘みゆえではない。そこが魅力だ。産地全体で圧倒的に農薬使用が少なくなったから、昔のピクプール・ド・ピネのような苦み、えぐみがないのもいい。久しくピクプールを飲んでいないなら、このワインの最新ヴィンテージを飲んで、産地の品質向上を実感してほしい。

 

2019.07.04

六本木ヒルズ、ラトリエ・デュ・ジョエル・ロブション

久しぶりにラトリエ・デュ・ジョエル・ロブション。ロブション氏がお亡くなりになって1年が経つ。73歳では早すぎた。数年前に一度だけ,ほんの1,2分とはいえ、言葉を交わす機会があった。素材の味を生かさねばならない、余計なことはしてはいけない、と言われていた。いかに装飾的に見えようとも、無意味な要素がない料理。そして、いかにシンプルでも、精密に組み立てられた料理。我々は彼の偉大さを鮮明に記憶している。

2003年の開店以来、店の状態と品質を維持し続けているのは尊敬に値する。ロブション氏がこの世にいない以上、味を受け継ぐ現在のシェフにかかる重圧たるや想像に絶するものがあると思うが、よい仕事をされていると思う。しかし直に薫陶を受けた世代が引退したあと、孫弟子の時代になった時に、どれだけ精神を正しく伝えられるだろう。それが料理の難しさだ。

ジラルデやシャペルやロブションのような人間国宝級の芸術家の作品は、後世の人間はひたすらそれを守ることだけのための飲食店を作ってもいいのではないか。それは人類にとっての永遠の宝なのであって、ダ・ヴィンチの油彩を時代の嗜好に合わせて色を塗りなおしたり顔を変えたりしないようなものだ。なぜ料理を絵画や彫刻と同じように扱えないのだろうか。もちろん現代美術もなければいけないが、現代美術だけあって古典がない状況になったら異常だ。この一点だけでも、ミシュラン全依存型のレストラン評価はおかしいと思うはずだ。

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この店の問題はワインだ。リストには有名な格付けボルドーと、シャンベルタン、エシェゾー、リシュブールといったブルゴーニュが並ぶ。正直、料理のスタイルなり創造性に比肩する感性の輝き、斬新な視点、ゆるぎない構築力がワインリストにはない。こういうのが売れるのですか、と聞くと、そうだ、と。それが日本のワイン好きとされる人種の嗜好、思想、感性なのだ。料理は料理、ワインはワイン。それはあるべき美食芸術の体験の場としてのレストランとはいいがたい。ある有名なレストランのシェフ・ソムリエと先日話をしていて、DRCと一級シャトーが山のように売れると聞いた。お客は「まずエシェゾーから行こうか」と言って、そのあとロマネ・コンティまで飲みまくるそうだ。いかにも日本的な話である。それはそうと、ラトリエ・デュ・ジョエル・ロブションはどんなドイツワインを売っているのだろうとページをめくると、エゴン・ミューラーのシャルツホフベルガー等有名なモーゼルのリースリングだけが並んでいた。いまだにドイツワインはそれしかないのか。その程度の理解でしかないのか。なんという現実との乖離、なんという料理との乖離。なぜこうなるかを考えると、この店のカウンター割烹スタイルにも理由があるように思える。料理に合わせてワイン選びを助けるという行為がしにくい。これは寿司店、てんぷら店とまったく同じ状況だ。リストをお客に丸投げしていては、お客はそれこそシャンベルタンとかシャルツホフベルガーとか有名なワインしか知らないから、そういうワインしかオーダーできない。当然ながら、ワインは事前にしっかり学んでおくのがお客の義務であり、そうでなければ頼む資格がない、と自らを律して努力しなければならない。それをしないうぬぼれたお客がワインを頼むから、世の中へんなワインリストばかりになる。料理とワインを合わせるなど、自分にもできないぐらい驚異的に難しいことだ。だからそのためのプロがいるのではないか。

店を出る前、マネージャーの方が、「うちには本物のエスコフィエのサインがあるんですよ、見てください」と。奥の壁に、その額がかけられていた。ものすごく繊細な、理知的な字。そうでなければあんな仕事はできないと思った。

 

2019.07.03

オーストリアワイン大試飲会2019

□■オーストリアワイン大試飲会2019

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、座ってる(複数の人)、テーブル、室内

7月1日、東京のシャングリラ・ホテルで行われた、日本オーストリア友好150周年を記念しての試飲会。私も通訳として参加させていただいた。100ワイナリーが出展、来日したワイナリーだけで50社。たぶんあちこちでテイスティング・ディナーが行われたことだろうから、そちらに出席された方も多いのではないだろうか。今回は未輸入ワイナリーの数が多い。以下がその名前。
Eva-Maria Berger
Der Pollerhof
Müllner
Leopold Müller
Stift Göttweig
Mittelbach Gottfried
Peter Schweiger
Rabl
Waldschütz
Sax
Eschenhof Holzer
Preisinger-Reinberger
Domäne Wachau 
Christ 
Hartl Heinrich III 
Stadlmann 
Familie Pitnauer
Gerhard Markowitsch
Oppelmayer
Muhr-van der Niepoort 
Sigma Vinum 
Bayer-Erbhof 
Hans Tschida 
Juris
Gross 
Polz Erich & Walter Weingut 
Strehn
Haider
Schödl Loidesthal
Am Berg - Ludwig und Michael Gruber

壮観。オーストリアを代表するような生産者なのに未輸入だったかと驚く名前もちらほら。それはそうとしても、ずいぶんオーストリアワインが増えたものだ。輸入元やショップやレストランの方々の献身的努力、オーストリアワインマーケティングのクリンガー会長の適切な戦略とリーダーシップ、そしてオーストリア大使館商務部松本さんの尽力によるものだ。このような状況は十数年前には夢のまた夢だった。オーストリアワインのひとりのファンとして、うれしい。ありがたい。

自分が好きで輸入していただいたワインもいくつかある。まっさきに品質チェックすると、いまひとつ。まあ、試飲会の場ではそれが普通。いくつものワインが並んでいても、不思議とどれもが似た味になっている。それはワインの中から表現されるべきものが、外的かく乱要因によって抑圧されているからでもある。外的要因はすべてのワインに同じように作用するから、その力が相対的に強いと、どれも似た味になるのだ。外的要因を遮断し、個々のワインの自立性を後押しする必要がある。さらにこの日は新月寸前、低気圧。花の日ではあるものの、新月の力に負けている。プロならば、何が何にどう作用しているのか、どんな問題が起きているのか、どうすればいいのか、と考えて状況を改善しなければいけないのだが、大概「今日はなんだか違う」、「なんか閉じている」と思うだけで漫然と放置している。そんなことだろうと思って少しはこちらで準備して行き、その場で対策をしてみたが、ビフォア・アンド・アフターでは巨大な違いだった。「こういう味が本来のものでしょう?」と輸入元に聞くと、「はい、そうです」と。たぶん周囲のブースの人は「あのバカ、何やってんだ」と思ったことだろう。しかしそこで羞恥心が先立ったり、他人の視線に気を取られては、効くものも効かない。「同じようにやってみてください」と輸入元に頼み、彼が処置したワインをテイスティングしてみると、効果は半分。「あとは精神力だ」と。自分で自分が何を何のためにやっているのか把握して自信をもたないと、ワインが不安を感じ取って、不安定で神経質な味になる。とにかく漫然と状態が整っていないワインをお客に出すのはやめてほしい、というか、それが料理だったら許されることだろうか。オーストリアはシュタイナーの母国であり、ビオディナミ大国。それが大きな魅力なのだが、提供する側にとっては普通のワインよりハードルが高いということは知っておくべきだ。ただ抜栓すればいいというものではない。その場でビフォア・アンド・アフターを経験していただいた何人かの方は、私の言っている意味をよく分かっていただけたことと思う。

以前に訪問したことがあるシュタイヤーマルクのビオディナミ生産者、プローダー・ローゼンベルクも来日していた。ここは大変にポテンシャルがあり、すでに見事なワインを造っているものの、本来はさらにすごいワインが造れるはず。その理由も私はそこそこわかっているので、その場にあった彼のいくつかのワインを素材に、本来あるべき味はこうだ、という見本を即席で造って飲んでもらった。「どうですか、こうすれば問題が解決されるでしょう?」と聞くと、「はい、よくわかりました」とメモを取っていた。そこにある個別のワインがおいしいまずいと言っていてもしかたない。何がやりたいのか、何をやるべきなのか、といった目的意識、根本の部分を議論し、その上でそれと反している、ないしそのための効果を上げていない技術論の部分を吟味しなければ意味がない。使用品種やその比率だとか、発酵温度だとかピジャージュの回数だとかの技術論は、目的がはっきり定まった上で合目的的に決定されねばならない。目的があいまいなままあれこれのワインを造っていてもままごとでしかない。プローダー・ローゼンベルクの現在の問題のひとつは、分節化というひとことで表現できる。私は「ビオディナミのワインは統合を目指さねばならない、それ自体でコンプリートな宇宙でなければならない、そうでなければキリストの血にはならない」と言った。たぶん彼はこれから私が見本を見せたような方向性のワインを造ってみるはずだ。楽しみにしている。

ロビーに某ワイン雑誌の編集長がいた。「日本にはブランド好きとアルコール好きはいても、本当のワインファンはいない。前からいなかったが、今でもいない」という話をしていた。よーく胸に留め置くべき言葉だ。「君がそれを言ってはしょうがないじゃないか」と私は茶化したが、実際それは正しい分析なのだろう。それでいいのか。日本ではどこのボタンを掛け違えてしまったのか。

ちなみに私が一番好きな生産者のひとりはドルリ・ムールだ。いかんせん高価でなかなか日本に輸入されない。スピッツァーベルク79ユーロ。うーむ。コート・ド・ニュイなら1級ワインも買えないぐらいだとはいえ。ちょうど帰りのエレベーターの中で一緒になったので、「あなたはオーストリアで最も偉大な生産者のひとりです」と言ったら、うしろから「そのとおりです」との声が。誰かと思えば中央葡萄酒の三澤彩奈さんだった。

翌日はオーストリア大使公邸でのイベント。13年にわたってオーストリアワインマーケティングを率いてきたウィルヘルム・クリンガー氏の日本での退任式。

今世紀に入ってからのオーストリアワインの輸出の伸びは著しい。2000年の数字と比較して、ドイツへは3倍、アメリカやベネルックス3国へは9倍、イギリスには15倍。20世紀においてはヨーロッパの一小国のマイナーワインだったオーストリアは、今では世界に確たる地位を築いた。オーストリアのアペラシオンであるDACもメジャー産地をほぼ網羅するまでになった。クリンガー会長の功績は巨大である。駐日オーストリア大使フーベルト・ハイッス閣下も素晴らしいスピーチで彼を称えておられた。

公邸では、今までオーストリアワイン文化の日本への伝達において多大な貢献をした方々への表彰式も行われた。表彰されて当然の方々。彼らの献身なくして現在のオーストリアワインはない。我々ワインファンは感謝するばかりである。それはそうだとしても、オーストリアワイン大使メンバー内でのそういった序列づけにつながるような行為に関して以前相談された時には私個人としては反対してきた。なぜならオーストリアワイン大使とはいわばゲマインシャフトであってゲゼルシャフトではないと考えるからだ。つまりオーストリア、オーストリアワイン、オーストリア文化価値共同体であって同一目的遂行組織ではない。価値を共有すれば目的は個人が決める。なぜなら全員は個人であって組織成員ではない。共同体、集団、組織といった人間の多様な集合携帯を混同すれば、結果は人間性の疎外である。ゲマインシャフト的メンタリティーにあっては、優れた人を持ち上げるエリーティズム志向、階級社会、君主制への道ではなく、迷える人に手を差し伸べるやさしさと愛が優先されるはずである。クリンガー氏に、「いったい何やっているのか。それでもキリスト教徒か。聖書の迷える子羊のたとえを忘れたか」と言ったら、「私もあなたの考えと同じであって、あれは私のアイデアではない」と。なるほど。

昨日の試飲会で気に入ったヴァインフィアテルのオーガニック生産者、エヴァ・マリア・ベルガーさんが会場にいらしたので、しばらくいろいろな話をしていた。ヴァインフィアテルはけっこう均一なレス土壌であり、ワインはグリューナー単一品種。何もしなければ普通においしいピュアで軽いワインができる。彼女は数か月の澱上熟成によって複雑さを出そうとしたワインも作っているが、意図は分かるにせよ結果が伴わない。私は昨日は、そういうカンプタルもどきを造ってもしかたない、と言った。今日は、ではどうすればヴァインフィアテルらしい軽やかさとピュアさを保ちつつ、ディメンジョンとヴァーティカリティを生み出すことができるか、について、考え方の基本と方法を伝えた。大事なのは収穫タイミングだ。我ながら画期的な方法だと思ったが、彼女は採用してくれるだろうか。それ以外にもいろいろと。たとえば、以下会話の一部。
田中「タンクから飲むワインはおいしくても、外国で自分のワインを飲むと失望するでしょう?」
ベルガー「そう、発酵が終わってタンクから試飲すると、おお、私ってなかなかやるじゃないか、と思うのに、そのあと出荷されたワインを飲むと、なんだこれは、意図していたものと違う、ということが多い」。
田中「あなただけではありませんよ。みんなそうでしょう。でもそれをしかたないこととして放置している。自分の責任ではないとさえ思っている。仕事は発酵が終わるまでではありません。消費者は誰もタンクから飲みません。瓶詰め前の味がどんなによくても、消費者が判断するのは、食卓で目の前にあるあなたのワインの味です。なぜ瓶詰め以降、あんなにまずくなるのか誰も真剣に考えない。私はそれをなんとかしたい」。
それから具体的な方法についてあれこれ話した。いつかオーストリアでベルガーさんと友人のオーガニックやビオディナミの生産者のために私はセミナーをするから、準備をしてほしいと言った。以前ドイツで行ったように。

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