« 2019年7月 | トップページ | 2019年9月 »

2019年8月の記事

2019.08.22

カリフォルニアの缶ワイン

最近カリフォルニアでは缶ワインに注目が集まっているそうだ。野球を見ながら、とか、キャンプとか、瓶が割れたら困る状況で気軽に缶ワイン。市場規模の将来的な拡大はすごいらしい。先日は缶ワインだけ300種類も集まったコンテストがあったらしい。

E809157653164e9da815099d2d7b5264


この缶ワインの中身はピノ・ノワール。同じワインの瓶入りバージョンをテイスティングしたが、なかなか美味しい。冷やして美味しい丸いタンニンと低い酸と濃厚な果実味。いかにもカリフォルニア。ワインだけではシンプルだと感じるが、鶏レバーのタレと合わせたら見事な相性。ワインが出しゃばらず、料理を素直に楽しめる。


この缶は900円。瓶は3000円。高いと言えば高いが、カリフォルニアワインファンにとっては安いと思われるはずだ。やはりカリフォルニアワインは今よく売れているらしい。客観的に見れば、このジューシーな果実味がドーンと来る酸のない味が日本人の味覚にフィットするというのは理解できる。今日会ったカリフォルニアの人も、「ワイン通やプロは酸酸に注目して酸っぱいワインを評価するが、一般消費者は酸は好きではない」と。同感だ。この乖離こそが日本におけるワイン文化にとって障害である。日本の料理のどこに高い酸があるというのか。私個人は、酸があってしかるべき産地や品種には酸がなければならず、そうでないなら酸がないのがいい、という極めてニュートラルな立ち位置だが、日本の料理(和食だけでなく広い意味で)には酸が低いワインのほうが合うという主張は、どれほど世の中のプロにバカにされようとも変えるつもりはない。今日のピノ・ノワールなど最良の証左である。


カリフォルニアでは今は非伝統品種ワインブームで、実際LAのワインショップに行っても腰を抜かすほどだ。若いソムリエの中にはマイナー品種ワインばかり売る人も多いらしい。しかし日本人はカベルネとシャルドネとピノしか欲しない、と聞いた。カリフォルニアにはあんなに多くの種類の素晴らしいワインが山のようにあるのに。カベルネとシャルドネとピノだけということは、結局異常に高いカルトワインか、安い品種ワイン、の両極端になっていく。中間価格帯でのバリエーションの広がりがなければガストロミー的にも面白くない。価格の上下でのバリエーションと横方向のバリエーションと、どちらが楽しいか。地球温暖化を考えても、もはや多くの産地はシャルドネやピノには暑すぎるのではないか。夏季降水量の少なさを見ても、カリニャン、グルナッシュ、ネロ・ダヴォラ、アリアニコ、ベルデホ、ブールブーランク、アシリアティコといった品種にこそ将来があるのではないか。世界で最もワインの知識がある日本人が、今でもカリフォルニア=カベルネ、シャルドネ、ピノと頑迷に思い込む理由が本当に理解出来ない。


カリフォルニアでは「欠陥ナチュラルワイン」ブームは下火になってきたらしい。いいことだ。アメリカ人はまずいものはまずいとはっきり言う。田舎の普通の人でも、だ。私は昔ミシガンやノース・カロライナの田舎でワインを売っていたのでそのことは身にしみて理解した。しかし欠陥ナチュラルワインと本当のビオディナミワインを混同する迷惑千万な人たちが日本のワイン市場のリーダーである以上は、日本では当分下火にはならないだろう。これは前にも書いたネタだが、イカれた自称ナチュラルワインについて「どこがいいのかわからない」と言ったら、「ワインの経験を積めばあなたにもわかるようになる」と、ある輸入元の若者に諭された。私は一生わからなくていい。


カリフォルニアワインとオーストラリアワインの違いは興味深い。カリフォルニア人気の理由が低い酸にあるなら、オーストラリアの不人気も理解できる。しつこく言うが、オーストラリアの補酸はやめて欲しい。イギリスは酸っぱいワインが好きだから、オーストラリアはまだイギリスの影響が強いということか。


ところで、カリフォルニアだけがアメリカワインではない。需要増大に対し生産も増大しているようだが、いい畑は限られるものだ。他州のワインにもそろそろ目を向けていい頃だろう。アメリカが好きならば、だ。アメリカではなくカリフォルニアが好き、というなら話は別。何がカリフォルニアを特権化するのか。おかしいと思わないか、カリフォルニアはひとつの州にすぎないが、チリワイン、オーストラリアワイン、ニュージーランドワイン、カリフォルニアワインという形で他国と同列に扱われる。カリフォルニアワインというならニューサウスウェールズワインというカテゴリーと併置すべきだし、オーストラリアワインというならアメリカワインと呼ぶべきだ。ある種の洗脳が功を奏している。まあトランプ大統領のアメリカと一緒にされたくないと民主党が強いカリフォルニア人が思うのは分かるが。

2019.08.16

バロッサ、ヘンチキ

バロッサを代表する生産者、ヘンチキに初めて来た。あまり知られていないが、自社畑の10種類のワインに関しては2005年からビオディナミを採用している。すべてのワインがビオディナミではない。これがややこしいところで、ヘンチキ社は自社畑のワインだけではなく、たとえばヘンチキ家の親戚からブドウを買う。これらは確かに減農薬らしいし、除草剤は使っていないようだが、ビオディナミではない。

Photo_20190909025201

▲名高いカルトワイン、ヒル・オブ・グレイス。奥にあるのはヒル・オブ・グレイス・デカンター。

ヘンチキは1860年に植えられた古木のワイン、ヒル・オブ・グレイスがあまりに有名で、その名前だけが一人歩きしている感がある。忘れられがちなのは、バロッサ最初の単一畑ワイン、1912年に植えられたマウント・エデルストン。暖かいエリアで沖積土壌っぽい味のヒル・オブ・グレイスに対して、涼しいイーデン・ヴァレーにあるこちらはずっと細やかでスッキリ。マウント・エデルストンのほうがよいテロワールだと思う。

Photo_20190909025202

▲ヘンチキのワインは昔ながらのコンクリート桶で発酵される。

意外かも知れないが、いろいろテイスティングした中でベストはシリルだ。このイーデン・ヴァレー産カベルネ・ソーヴィニヨン88、カベルネ・フラン7、メルロ5パーセントのワインは、シラーズの前二者より余韻が長く、形が整い、大変に垂直的で、味わいが緻密で、隙のない構成。パワフルなのに品がある。バロッサ=シラーズだと思うのは間違いで、全体にカベルネ・ソーヴィニヨンのほうが出来が良くないだろうか。世界で誰もそんなことは言っていないが、私はそう思う。シリルは紛れもなく世界最高のカベルネのひとつだ。自根らしさもシラーズ以上に感じられる。

もうひとつヘンチキでおすすめは、シラーズ・カベルネ・ブレンドのユーフォニアム。これも見事な垂直性と緻密さ。比較的フラットで緩いGSMブレンド、ヘンリーズ・セブン(よく売れるそうだが)より遥かにいい。つまりはカベルネがいいということだ。

Photo_20190909025203

▲1979年に5代目当主となったスティーヴン・ヘンチキ。

それにしてもヘンチキは何を作っても、ピシッと緻密で精悍。この格好良さと一貫性はすごい。ドイツ車みたいな安心感。敬服すべきセンスと技術だ。このある種のドイツっぽさを正当に評価できないと、ドイツ移民による開墾、ブドウ栽培というバロッサの歴史的背景とそれがもたらす個性を見失う。

セラー入口にポートとマデイラの樽があった。非売品で、身内で特別な時に飲むそうだ。バロッサは最初は酒精強化ワインの産地だったわけで、今でも実は酒精強化ワインは圧倒的に美味い。ヘンチキならどんなに美味しいことか!

2019.08.14

オーストラリア・インターナショナル・ワイン・チャレンジ

第一回オーストラリア・インターナショナル・ワイン・チャレンジが、アデレードの国立ワインセンターで行われた。各カテゴリーのオーストラリアワインの中で優劣をつけるだけではなく、オーストラリアと外国のワインを同列で比較して、オーストラリアワインの品質を客体視するのが一つの目的だ。私は副審査委員長。第一回だから知名度ゼロで、出品数は少ないが、こういうのは最初に試行錯誤するほうが、出来上がってしまった権威に乗るより楽しいものだ。

Aiwc-2

参加したのは主にオーストラリアの著名ワイン専門家。出品ワインの大半はオーストラリアワインなので、彼らと議論しながらテイスティングするのは勉強になる。テイスティングは朝9時半から午後6時までかけて、ひとり111本だから、十分な時間がある。つまり議論する余裕がある。機械的に点数をつけていく審査会も多いだろうが、これまた楽しいのは評価そのものではなく、議論であり、駆け引きだ。

 

相変わらず自分は人とは違う項目に重点を置く。他の人がきれいなフルーツとクリーンな香りと滑らかなタンニンにこだわるのに対し、私は下方垂直性、複雑さ、ミネラリティ、余韻の長さだ。それでも大半のワインに関しては同じ点数になる。いいものはいいし、ダメはダメだ。

 

大きく点数が異なるジャンルはハンター・セミヨンだ。これは大半の日本人にとっては変な、超早摘みワイン。熟成したものは私でさえ偉大なワインだと分かり、プラチナ賞にしたが、瓶詰めしたばかりの多くのワインは、ただすっぱく青く固いワインでしかない。オーストラリア人は、15年経てばこれは凄いワインになる、と言うが、残念ながら私には予見できなかった。

 

概して自分の点数が高いのは、ヴィクトリア。ヴィクトリアワインにはほぼ常に他の人よりずっと高い点数をつけるので、メルボルンに移住しろ、とか、ヴィクトリアワイン協会の認定アンバサダーになれ、とかからかわれていた。しかしヤラとかは例外として、ヴィクトリアの陰翳、多面性、悪く言えばごちゃごちゃカオティックだがよく言えば新世界としては例外的な複雑なミネラリティ、特にヴィクトリア南半分の産地の下方垂直性(自根っぽさ)は、自分にとっては称賛すべき要素だ。だからヴィクトリアワインの番になると、私は一生懸命に他の人を説得。だいたい自分は金賞、他の人が銅賞というところを、なんとか銀賞に落とし込んでいた。他に自分が高い点数なのはクナワラ。自分は金賞、プラチナ賞でも、青い固いと言われる。それも含めてクナワラだろうと、せっせと説得。圧倒的な構造と余韻だと思うのだが、、、。逆に自分の点数がほぼ常に低いのは、産地を問わずシャルドネ。ミネラリティと酸の勢いが弱い。オーストラリアが世界屈指のシャルドネ産地であると思ったことは一度もない。

Aiwc  

ともあれ、才能あるオーストラリアのテイスターとオーストラリアワインをテイスティングするのは楽しい。ジャパンワインチャレンジとは、残念ながら、審査員のレベルが違う。結論に至るまでの論理構築力と情報量がすごい。逆に、なぜ日本人はこのように滔々とスピーチ出来ないのか。なぜ自分の意見を言う前に他人の顔を伺うか。それは人種的理由ではもちろんない。ジャパンワインチャレンジでも帰国子女系、海外長い系、配偶者外人系女性は概して他人の顔色を見ない発言をする。いろいろ考えさせられる。私はノーマル日本男性としては例外的に、日本語だと無口だが英語になると喋りまくるので、こういう場所では絶対に埋没しない。

 

結果は、ジャパンワインチャレンジよりだいたい一点は低いようだ。しかし良いワインが選ばれたと思う。第一回目としてはじゅうぶんに有益な結果が出せた。

 

翌日は、金賞ワインの中からトロフィーワインを選ぶ審査。スパークリングは順当にシャンパーニュ、白はなんだかんだ言ってもハンター・セミヨン(ブラインドでも一目瞭然)、赤はバロッサのシラーズ(ブラインドだから実際には分からないが、たぶん)。やはりそうなるのか。全員の平均を取ると、色が濃くてパワフルで樽ががっちり効いた少し甘めの、ある意味戯画的に“典型的なオーストラリアワイン”が選ばれてしまうあたりが興味深い。それでは予定調和的なので、私など抵抗してセントラル・オタゴのピノ・ノワール(たぶん)を一位にしていたが、審査員の大半がオーストラリア人では、意地でもニュージーランドをトロフィーワインにしないだろう。ニュージーランドの審査員が自国のワインに票を入れなかったのが不思議ではある。ちなみに後日結果を見たら、産地と品種の推測は正しかった。それだけ“らしい”ワインだったということだ。

 

初日の夜は、国立ワインセンターでのマスタークラス。集まったプロや愛好家数十人を前に、オーストラリアワインについて、またワインテイスティングについて、私もパネリストとしてお話しした。

Aiwc-3

テーマは、イーデン・ヴァレー、アデレード・ヒルズ、マーガレット・リバーのシャルドネの違いについて、とか。マルベックをどう考えるか、とか。トスカーナ料理文化とサンジョベーゼワインのスタイルの必然的関連性とか。オーストラリア人を前にオーストラリアワインについて話すなど身の程知らずだが、オーストラリアという広大な産地を一括りにして典型的オーストラリアなるものを語る愚についてはしっかりと指摘し、産地ごとワインごとの美点を対象に入り込んで理解することの重要性を語らせていただいた。

 

例えば中華料理20品と20産地のシラーズの最適な組み合わせとその理由を述べよ、という質問に答えられるかどうか。出来なければ、オーストラリアワインを買って楽しむのは無理だ。このようなトレーニングを積まないと、いつまでたっても「バーベキューにはオーストラリアのシラーズ」みたいな無茶苦茶な紋切り型イメージから脱却出来ない。オーストラリアの消費者でさえイメージ先行なのではないだろうか。だから私はこのマスタークラスで、どの産地のシャルドネがどういう理由で何に合わせるべきなのか、について触れさせていただいた。

 

ワインスタイルとワイン消費スタイルの乖離の問題についても語った。つまり、長期熟成可能性が質的判断に含まれることから生まれるタンニンや酸の強いワインと、買ったらすぐに飲む消費との乖離。オーストリアのようにすぐ飲むのが伝統ならすぐに飲んで美味しいワインを造るのがワイン文化だ、と。

 

私はいかにイギリス的ワイン観をオーストラリアが相対化できるかが、またフランス品種オーストラリアワイン(ほとんどがそう)のフランス型ワインからの独立が大事だと思う。つまり価値判断の基準を外部に置かないことだ。私はどこの国でもそう言っている。それが帝国主義からの自由なのだ、と。さらっと言っているが、この問題は深い。

 

外国人である私が軽率に言うべきことではないのは承知の上で言うが、オーストラリアのアイデンティティとは、オーストラリアらしさとはなんなのか。3・8万人しかいなかった20世紀はじめと比べて今や人口2500万人の大国。人口増を支えてきたのは積極的な移民政策だ。その移民も2016年にはヨーロッパやイギリス出身者よりアジア出身者が上回った。たとえば中国出身者の比率は5%程度。シドニー郊外のチャッツウッドでは中国系比率34%。香港にいるのかオーストラリアにいるのか分からない雰囲気だ(アジア人である私には大変に心地よい感じもある)。日本では誰もが日本らしさを自覚しているだろう。あるものが日本らしいか日本らしくないかについてたいした祖語もないだろう。では移民国家オーストラリアがオーストラリアらしいワインを造る時、その、らしさ、とは何なのだろうか。自分でオーストラリアらしさを自覚していなければ、もちろんオーストラリアらしいワインは造れない。そこでトロフィーワインに選ばれたバロッサのシラーズのスタイルが気になる。ハンター・セミヨンもそうだ。その二つに見られるある種の攻撃性、力の賛美、コントラストの大きさは、オーストラリアらしさの表徴なのだろうか。

 

ワイン審査会のおもしろさは、ワインをテイスティングすること自体にあるわけではなく、あるワインが他のワインよりよいとする政治、倫理、価値観、美意識等々の総体を考えることにある。ブラインドで飲んでそれがバロッサのシラーズかどうかを悩んでいるようではしかたない。それはスタートラインでさえない。あるワインをよしと主張するためには、自分自身が自分の価値尺度を対象化し、その上で、これをよしとすることでいかなるメッセージが伝えられるだろうか、そのメッセージはさらに高次の目的のために有益なものなのだろうか、を考えて、正しい場所に正しいコマを置かねばならない。ワインが注がれて、結論を出し、自分の結論をサポートする論理を構築して議論の準備をするまでに20秒。それが出来るか否かが、ワイン通であるための要件だろう。

 

 

2019.08.07

ジャパン・ワイン・チャレンジ2019

Jwc

 

ワインのコンテスト、ジャパン・ワイン・チャレンジに今年も参加した。ひとつのテーブルあたり、午前50本、午後50本ぐらいのテイスティングを行う。経験豊富な審査員ばかりなので、私の仕事は今回は楽だ。

私のテーブルは常にしっかり議論しているので他より時間がかかってしまうのはしかたない。この産地においてこの品種でどのような表現をした場合によいワインと呼べるのか、といった議論と共通認識がなければ、点数は単なる好き嫌いになってしまう。好き嫌いの点数を足して審査員人数で割り、15点なり17点なりという点数をテイスティングシートに書いたとして、その点数になんの意味があるのか。よしあしの客観性の根拠はどこにあるだろうか。「なぜこのワインにあなたは17点をつけるのか」と聞かれたら、その理由を起承転結をつけて論理的に説明できる必要がある。それを他の人たちが聞いて、もっともだと納得できるか否か。私のテーブルは日本人だけなので、議論は日本語。それでうまく表現できないなら、外国語で説得するのはもっと難しいだろう。

昨日のインターナショナル・サケ・チャレンジの審査のように点数を導くフォーマットがあれば簡単なのだが。。。

興味深いのは、皆が点数を高くつけやすいワインの特性だ。それは、
1、アルコールが高くてリッチな味のもの。
2、なめらかでフルーティで飲みやすいもの。
3、アタックが強いもの。
反対に評価が難しいポイントは、
1、ミネラリティー。
2、ストラクチャー。
3、ディティール。
4、余韻。
ワインをテイスティングする本数が増えて舌と頭が疲れてくるほど後者型のワインが評価されなくなる。そういう傾向を補正していくのも私の役目だ。前者型のワインに高い点数を与えることを批判する人はたくさんいる。それをロバート・パーカーの悪影響うんぬんと言ったりもする。しかし実際にテイスティングすると、言行不一致な人は多いものだ。後者の項目をしっかり見定めるためにさしあたってできることは、
1、ワインは絶対に吐き出さずに飲む。
2、絶対に酔っぱらわないようにする。
3、過去に飲んだワインの味を忘れず、新たに飲んだワインとそれら過去の記憶データとを瞬時に比較検討する。

今回は日本のワインを多くテイスティングした。山梨の甲州はすっとんきょうなものがなく、平均品質は確実に向上しているが、同時にどれもこれも似た味で、同調圧力が存在しているのかと思うほどだ。ある有名な山梨の生産者も、スタイルの均質性にひそむ危険と将来への展開可能性のなさについて話していた。「若い子はみんなよくできたまじめないい子だから」。「守りに入っている」。世の中には、バカ、あほ、キチガイ、変人と呼ばれる人も大事だ。もちろん私は、まじめないい子が作ったワインと、キチガイ・変人が作ったワインなら、後者のほうに興味がある。

日本の赤ワインの品質向上には感銘を受けた。全体に、タンニンがなめらかになり、樽も目立たず、軽やかさや抜けのよさが増した。特に東北のワインの出来が素晴らしい。

昨日のインターナショナル・サケ・チャレンジの審査員別の点数分布分析を見た。賞別の全審査員平均得点と個々の審査員の実際の得点との相関性を調べたが、さいわい、私の点数分布と実際の賞には相当な相関性があった。自分が作った採点表を使って自分ができないなら、採点表が間違っているか自分が無能かだ。そして個々人がつけた最高点と最低点にどの程度の得点差があるかを見るのもおもしろい。だいたいパフォーマンスがよい人は得点差も大きい。

 

2019.08.06

インターナショナル・サケ・チャレンジ

Isc

日本酒のコンテスト、インターナショナルな・サケ・チャレンジが今日、東京のコンラッドホテルで開催された。私は去年に続いて審査員として参加し、今年は金賞の中からトロフィーを決める五人の二次選考審査員も務めさせていただいた。

審査員は外国人8人と日本人8人。今年から審査員が増え、新しい考え方の若手の日本酒販売店の方に参加してもらえて良かった。これから日本酒の新たな価値観を見出していきたい。

今年はひとつのことが決定的に違う。テイスティング・フォーマットがあることだ。昨年までは各人が20点満点で評価し、それを平均して順位をつけていた。しかし20点とはどういう意味か。18点とはどういう意味か。その点数の根拠はどこにあるのか。私はそう思った。いろいろとあたってみても、消費者視点でのコンペティションにふさわしい評価基準は見当たらない。ならば自分で作るしかない。そう思って今年は私が評価法を創案し、それを全員に使用してもらった。外観、香り、味わいの中に計12項目あり、それぞれ2点、1点、0点のいずれかをつける。総合的印象は2項目あり、それぞれ3点、2点、1点、0点のいずれかをつける。これで30点満点の基準ができる。少なくともこれで、16人の審査員が共有する視点、着目点、価値観が与えられる。そうでなくしてどうしてまともな評価、責任ある審査と言えようか。もちろんそれが完全なフォーマットであると主張するつもりはない。できたフォーマットについてあれこれ批判するのは誰でもできるが、なんであれまずはフォーマットを作らねば何も始まらない。それがどういうフォーマットなのかは今月末の日本橋浜町ワインサロンでの評価法の講座でお伝えするつもりだ。

私は現在主流の日本酒の味が本来あるべきものだとは思っていない。あまりにも表層的なきれいさ、無難さを求めていないか。欠点がなければないほどよいのではなく、長所があるほどよいお酒だとみなすようにしなければならない。いつから工業メンタリティーに汚染されるようになったのか。それぞれの土地・自然の特徴・美点をいかに最大限発揮するかにもっと着目しなければならない。等々と理念を語るのはたやすい。その理念をどうすれば点数に反映させるかが難しい。審査結果を見るなら、あながちこのテイスティング・フォーマットは間違いではなかったと思う。

それにしても審査員ひとりひとりの評点はおそろしく違う。ワインだと相当に集約されるものだ。たとえば二次選考、トロフィーワインを決める金賞酒のテイスティングでは、カテゴリーごとにだいたい5本の金賞があった。5人の審査員が一位に3点、二位に2点、三位に1点をつけて平均をとった。トロフィーワインの得点は8点しかない。他のお酒も7点、6点といった具合だ。結果としては満足ができるものだったとはいえ、仮に全員がある程度同じ見方、考え方をしているなら、一位の点数はもっと高いはずだ。日本酒の現状をよく表している。

もうひとつ、自分にとっての重要な変更点は、生酛・山廃を独立カテゴリーとせず、生酛・山廃であろうと速醸であろうと関係なく、純米、吟醸・大吟醸、純米吟醸、純米大吟醸の4つのカテゴリーの中に入れ込んだことだ。精白歩合のカテゴリーと乳酸菌のカテゴリーを並列するのは論理的におかしい。生酛・山廃を独立させると、そのカテゴリーの評価軸は生酛・山廃らしければらしいほどよいということにならざるを得ないが、私は生酛・山廃はあくまで手段であって目的ではないと思っている。また生酛が世の中的に注目されている中で、それが速醸と並べてテイスティングされた時にどういうパフォーマンスを見せるかも重要な関心事だ。そして順当に、純米カテゴリーのトロフィーは生酛だった。

それにしても、米じたいの質が悪すぎる。。。自然に敬意を払い、素材の質を追求し、素材の力をいかに失わずに食品に仕上げるか、こそが日本の食の美学ではなかったのか。また、ビオディナミ、ビオディナミとワインに関してはやたらとこだわるなら、なぜ米をビオディナミで栽培しないのか。現在のビオディナミがそのままでは稲に向かないというなら、稲用のビオディナミを開発すればいいではないか。別にカモミールやノコギリソウや牛の角に拘泥せずとも、日本にもとからある植物や動物を使えばいい。・・という植物を・・という素材のすり鉢で粉にして日本の暦の・・という日に・・・をすれば・・・という力が得られ、いもち病に効果がある、といったことをもっと研究してほしい。

2019.08.01

フランチャコルタ・バーがオープン

有楽町阪急のメンズ館3階に、フランチャコルタ委員会が運営するフランチャコルタ・バーがオープンした。月替わりで10種類のフランチャコルタが、グラス1200円から楽しめる。グラスはボリュームのあるフランチャコルタ公式グラスだから、量的にも不足はない。

Photo_20190801030401

 

この機会にレセプションがあり、フランチャコルタ委員会の方々に話を聞いた。

Photo_20190801031001

 

日本ではワイン=女性のもの、と思われているようで、男性としては諸々奇異に思うところもあるだけに、場所がメンズ館、アルマーニなどのイタリアブランドの店に囲まれているというのが個性があっていい。フランチャコルタをミラノファッションと結びつけて男性に訴求するのは、ニッチなフランチャコルタ(有名だが実は小さいDOCG)にはなかなか効果的に思われ、特にシャンパーニュやプロセッコとの差別化には有効だ。フランチャコルタは、カッコいい、お洒落なワイン。そのメッセージは客観的に見て、そう訴求するしかないと言えるほど、戦略的に正しい。実際にミラノのラグジュアリーシーンに登場するワインは、フランチャコルタに決まっている。

会社帰りにふらっと気軽にフランチャコルタ、と委員会の人が言っていたが、それではプロセッコの訴求方法と変わらないではないか。何が違うのか。そう突っ込むと、「プロセッコとは質が違う」。「そうですか?これは、いいものもあればそうでないものもある、としか言えません」。安いフランチャコルタと一番高いヴァルドッビアーデネのプロセッコが大体同じ値段だろうが、どちらが質がいいかと聞かれたら、私はプロセッコと答える。そもそも、フランチャコルタとヴァルドッビアーデネのどちらがいいかの議論は不毛にして不適切だ。しかしマーケティングは異なる。フランチャコルタはミラノ郊外と言える開けた場所。行楽地だし、アウトレットもある。ヴァルドッビアーデネは最近でこそ世界遺産にもなって観光地だが、つい最近までは田舎の山の中。都会味か、田舎味か。それぞれに似合う場がある。

しかし委員会作成のバックグラウンド映像は、都会的とは程遠い畑の四季や、動瓶やオリ引き風景。絵をちらと見ただけではフランチャコルタなのかどこなのか分からない。その手の話は全産地同じだ。品質にこだわっているといったセリフをワイナリーのオーナーがしゃべっているが、それとて世界じゅう同じだ。品質がどうでもいいワインなどない。そもそも動瓶やオリ引きはシャンパーニュ製法なのであって、実際にその物まねであるフランチャコルタがいかにシャンパーニュ製法について語ろうとも、みなが思い出すのは物まねという事実である。だからこの映像は、事実のドキュメンタリーとしては正しくともメッセージにはなっていない。強化せねばならないのはイタリアファッションとの、また北イタリアのラグジュアリーとの関係性であり、それを想起させる映像を流すべきである。パーティの席ではプロシュート、パルミジャーノ・レッジャーノ、グリッシーニ、フォカッチアのサンドイッチ、オリーヴが並んでいたが、そのどこにスペシャルなロンバルディア性があるのか。なんとなくイタリアな感じ、でことが済む時代ではもはやない。それではフランチャコルタのラグジュアリーでスペシャルな感覚も伝わらないし、誇り高きミラノ近郊のDOCGであることも伝わらない。伏見のお酒のPRの席にいぶりがっこやなめろうを出すだろうか。

 

Photo_20190801030501

 

ファッション以外に、フランチャコルタに関してはおおいに訴求しなければならないことがある。それはいまやフランチャコルタの7割もの生産者がオーガニックに取り組んでいるという事実だ。フランチャコルタはヨーロッパのオーガニックのリーダーのひとつ。これがファッション性・ラグジュアリー性との両輪をなし、フランチャコルタを単なる雰囲気もののお酒ではなく、地に足のついた、正統的な存在にする。

客観的にその味を見るなら、フランチャコルタはシャンパーニュよりフェノールを感じる。これを欠陥としての苦みではなく、料理との接点をもたらすストラクチャー構成要素として位置付ける必要がある。一般消費者にも分かるように簡単に言うなら、シャンパーニュは乾杯用にどうぞ、フランチャコルタは食事用にどうぞ、と。そして食中酒として見る時に、ガス圧の低いサテンというフランチャコルタ独特のスタイルの魅力も伝えやすくなる。委員会の人が言うには、「シャンパーニュのキューっとした強さを評価する人が多く、サテンは日本では理解されない。やはりアサヒ・スーパードライ的な飲み口が好きなのでしょう」。情けない話だ。いったいスパークリングワインに何を求めているのか。キューっなら、強炭酸水のほうがいい。

フランチャコルタのひとつの問題は、パッケージングの普通さ、さらに言うならかっこ悪さである。世界にあふれるシャンパーニュ的なワインと何が違うのか。フランチャコルタにとっては見た目は他のワイン以上に大事だ。飲む前からイタリア最上のファッションを感じさせねばならない。

Photo_20190801030601

 

ちなみに写真のワインは私の好きなバローネ・ピッチーニ。やはり一番おいしかった。全体にフランチャコルタは緩い。モレーン土壌が多いのだから当然だ。その緩さとカッコよさの両立に、男心をくすぐるおしゃれ感があるのだと思っている。

 

« 2019年7月 | トップページ | 2019年9月 »