日本酒

2019.09.19

高円宮家での日本酒談義

赤坂御用地南門を入って左にある高円宮家にお招きを賜わり、妃殿下と日本酒談義をしてきた。皇族の方のお宅に上がるなど初めての経験。シンプルながら美しく気品のあるインテリア。アール・デコ的モチーフが素晴らしい。そこで写真を撮るような下品な振る舞いは出来ないので、画像はなし。いただいたアイスティーとラスクがまた大変に上品な、イメージ通りの味。アイスティーを上品に作ろうとすれば普通の人はセイロンを使うだろう。ところが意外やアッサム系。普通アッサムはアイスティーにすると鈍重でキメが粗くなるだろうに、こちらではエレガントにまとまり、かつ、アッサムならではの底支え感と力強さと温かみがあり、取り澄ました冷たさがない。この感性には畏れ入る。食品の味からは、言葉では分からない大切なこと、言葉では時間がかかる本質的なことが、瞬時に伝わってくる。このようなものを飲ませていただき、ありがたさに平伏したくなった。

妃殿下は大変に博学かつ鋭敏な感性をお持ちで、お酒に関する見識の高さには常々感銘を受ける。今回妃殿下がお話になられたことを要約するなら、
1、昔はお酒を飲めばそれがどこのお酒かブラインドでも分かったが、今ではみんな同じようになって分からない。
2、売れるお酒を作るのは当然で、流行を追って右ならえすることをやめろとは言わないし、言えば抵抗されるが、少なくとも各蔵元に一本は、伝統とその土地らしさをしっかり表現するクラシックを作るべきだ。
3、リファレンスポイントがなければならない。迷ったらたちかえるべき何かがなければいけない。そうしないと伝統が滅びる。
4、世界中どこでもお酒はその土地の宗教と結びついている。

どのお話も深く首肯することばかりである。有り難いことに、日頃私が言っていることとも同じだ。私は妃殿下に、「最低限、各県の原産地呼称を明確にしなければならず、たとえば新潟酒と名乗るためには、新潟の米と新潟の水を使って新潟で作られたお酒でなければならない、という規定が必要だ。新潟で兵庫の山田錦のお酒を作ってもいいが、それは『潟酒』ではない。日本はそれぞれの地方に独自の文化があり、それらが並び立ちつつ融合して日本という国がある。地方文化がなくなれば日本は日本でなくなる」、とお話させていただいた。

皇室は日本文化の中心軸として日本を支えてこられた。日本酒は日本文化の代表のひとつである。だからこそ現在の日本酒のありように対して妃殿下は憂慮しておられるのだろう。もう一度日本酒のあるべき姿について考えるよい機会を頂戴した。

帰る際には玄関で最後までお見送りしていただき、私ごとき下々のものにまでなんとお優しい御心遣いであられることかと感激した。

2019.08.06

インターナショナル・サケ・チャレンジ

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日本酒のコンテスト、インターナショナルな・サケ・チャレンジが今日、東京のコンラッドホテルで開催された。私は去年に続いて審査員として参加し、今年は金賞の中からトロフィーを決める五人の二次選考審査員も務めさせていただいた。

審査員は外国人8人と日本人8人。今年から審査員が増え、新しい考え方の若手の日本酒販売店の方に参加してもらえて良かった。これから日本酒の新たな価値観を見出していきたい。

今年はひとつのことが決定的に違う。テイスティング・フォーマットがあることだ。昨年までは各人が20点満点で評価し、それを平均して順位をつけていた。しかし20点とはどういう意味か。18点とはどういう意味か。その点数の根拠はどこにあるのか。私はそう思った。いろいろとあたってみても、消費者視点でのコンペティションにふさわしい評価基準は見当たらない。ならば自分で作るしかない。そう思って今年は私が評価法を創案し、それを全員に使用してもらった。外観、香り、味わいの中に計12項目あり、それぞれ2点、1点、0点のいずれかをつける。総合的印象は2項目あり、それぞれ3点、2点、1点、0点のいずれかをつける。これで30点満点の基準ができる。少なくともこれで、16人の審査員が共有する視点、着目点、価値観が与えられる。そうでなくしてどうしてまともな評価、責任ある審査と言えようか。もちろんそれが完全なフォーマットであると主張するつもりはない。できたフォーマットについてあれこれ批判するのは誰でもできるが、なんであれまずはフォーマットを作らねば何も始まらない。それがどういうフォーマットなのかは今月末の日本橋浜町ワインサロンでの評価法の講座でお伝えするつもりだ。

私は現在主流の日本酒の味が本来あるべきものだとは思っていない。あまりにも表層的なきれいさ、無難さを求めていないか。欠点がなければないほどよいのではなく、長所があるほどよいお酒だとみなすようにしなければならない。いつから工業メンタリティーに汚染されるようになったのか。それぞれの土地・自然の特徴・美点をいかに最大限発揮するかにもっと着目しなければならない。等々と理念を語るのはたやすい。その理念をどうすれば点数に反映させるかが難しい。審査結果を見るなら、あながちこのテイスティング・フォーマットは間違いではなかったと思う。

それにしても審査員ひとりひとりの評点はおそろしく違う。ワインだと相当に集約されるものだ。たとえば二次選考、トロフィーワインを決める金賞酒のテイスティングでは、カテゴリーごとにだいたい5本の金賞があった。5人の審査員が一位に3点、二位に2点、三位に1点をつけて平均をとった。トロフィーワインの得点は8点しかない。他のお酒も7点、6点といった具合だ。結果としては満足ができるものだったとはいえ、仮に全員がある程度同じ見方、考え方をしているなら、一位の点数はもっと高いはずだ。日本酒の現状をよく表している。

もうひとつ、自分にとっての重要な変更点は、生酛・山廃を独立カテゴリーとせず、生酛・山廃であろうと速醸であろうと関係なく、純米、吟醸・大吟醸、純米吟醸、純米大吟醸の4つのカテゴリーの中に入れ込んだことだ。精白歩合のカテゴリーと乳酸菌のカテゴリーを並列するのは論理的におかしい。生酛・山廃を独立させると、そのカテゴリーの評価軸は生酛・山廃らしければらしいほどよいということにならざるを得ないが、私は生酛・山廃はあくまで手段であって目的ではないと思っている。また生酛が世の中的に注目されている中で、それが速醸と並べてテイスティングされた時にどういうパフォーマンスを見せるかも重要な関心事だ。そして順当に、純米カテゴリーのトロフィーは生酛だった。

それにしても、米じたいの質が悪すぎる。。。自然に敬意を払い、素材の質を追求し、素材の力をいかに失わずに食品に仕上げるか、こそが日本の食の美学ではなかったのか。また、ビオディナミ、ビオディナミとワインに関してはやたらとこだわるなら、なぜ米をビオディナミで栽培しないのか。現在のビオディナミがそのままでは稲に向かないというなら、稲用のビオディナミを開発すればいいではないか。別にカモミールやノコギリソウや牛の角に拘泥せずとも、日本にもとからある植物や動物を使えばいい。・・という植物を・・という素材のすり鉢で粉にして日本の暦の・・という日に・・・をすれば・・・という力が得られ、いもち病に効果がある、といったことをもっと研究してほしい。

2019.02.10

日本酒の勉強

沢山の日本酒を試飲しながら、日本酒をいかなる基準で評価すればいいのか思案中。なぜいいのかを表現するための用語を確定していかないと。簡単に言えば、私がワインに対して使ってきた言葉と尺度をそのまま該当させた時に、何か問題が起きるのかを自分で検証しなければいけない。例えば、A という要素があれば美味しい、と仮説を立てるとする。そして実際にいろいろ飲んで。Aという要素がないのに美味しいと思うお酒があったなら、その仮説は修正しなければならない。また、AB二本のお酒があって、Aが美味しいと思う。ではもう一方のBにはなく、Aにはあるものとは何か、と考えていきます。こういった感覚と論理を一致させる努力をしないと、何か言おうにも、まともな日本語にすらなりません。

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美味しかった作品は次の写真のもの。
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ブラインドで飲んでも、いざ蓋を開けてみると、やっぱり兵庫県吉川町特A山田錦だったりする。福井の梵の日本の翼、いかにもそういう味。氷温長期熟成によってパワー感が奥行きや複雑さに転化している印象。社長の高橋さんによれば、梵は90品目もあって杜氏は一年中忙しく酒を造っているそうです。品目数がひたすら増えていくのがどこでも問題だと思います。人間の才能には限界があるので、どれだけひとつに集中することができるかも究極的な品質に関係するはず。それでもこの作品は見事。兵庫県の福智屋の生酛純米大吟醸も堂々たる構えと安定感の中にゆったりとしつつビビッドな酸が絡み合い、香りは穏やかでいて伸びがあってたいしたもの。特A山田錦だけがいいわけではないと先日書いたばかりではないか、と言われそうですが、美味しいものは美味しい。そして地元の米と酵母で発酵したタイプも美味しいものは美味しい。青森県の米、華想いと、青森県の酵母、まほろば吟を使った桃川も、淡々とした中にきちんとした構成力があり、前後感とそれがもたらす空間の広さを感じさせ、さらには中心密度もあるため、品があります。福島県の豊久仁の純米大吟醸は、いかにも五百万石の軽快さとすーっと伸びる香りときめの細かさ。いかにも大吟醸といった趣ですが、香りと味のあいだの一体感に優れ、香りを浮足立たせないだけの足腰の強さがさりげなくあるのが素晴らしく、全体として整った品位があります。どこに美味しい理由があるのか、ずっと考えています。美味しいと思わなかったのが、吟醸と大吟醸。純米大吟醸は面白いことに、いいものはとてもいいし、ダメなものは肩透かしの極致。雫酒や中取りならいいわけでもない。
 
この4本の純米大吟醸は順当に高品質ですが、左3本は個性の面白さが印象的。岐阜のお酒の流れのスムースさと風味の透明感、京都のお酒のフワフワした捉えどころのない花霞的空気感の中に秘めた芯の強さ、東京のお酒の朴訥な当たりのよさや朗らかさや親しみやすい温度感。どれも飲んですぐに風景が浮かび、使い途が見える。東京のお酒は余韻が若干短いので点数は高くならないにせよ、実は飲んで一番身体に浸透する感じ。私は東京人なので身体の大半は東京の水で出来ているからなのか。正直、多摩自慢が一番「普通でいい感じ」に思えるとは予想していませんでした。ある意味、テロワールおそるべし。
 
 

2018.09.23

近江八幡ひさご寿司での日本酒と料理のマリアージュ

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 松の司“テロワール・シリーズ”の2本と「田中式」日本酒を、近江八幡を代表する名店、ひさご寿司さんに持ち込み、日本酒と料理のマリアージュについて研究しました。
 土地の表現である日本酒にとって重要なのは、その土地らしい味がすること、と、地元料理に合うこと、です。私にとっては当たり前すぎるぐらい当たり前の条件だと思いますが、必ずしも理解されているとは言えません。
 概して日本酒が「食中酒にふさわしいタイプ」と言われる場合、どうも味がないお酒のことを指示しているようです。つまり料理を邪魔しないが関わりもしない、まして料理を引き立てることもなく流すかのような水。もちろん私はそのようなお酒がいいとは思いません。料理とお酒が1+1=3になるようなお酒がいいお酒です。流すだけなら水を飲め。お酒は料理のエネルギーブースターを目指せ。まずは社長と杜氏とそういった見解を共有していく必要があります。これは口で言っていてもだめです。実際にテイスティングして相性を判断していかねばなりません。つまり、感覚されたものと表現用語を合致させていく努力が必要です。その“教育訓練”がなければ、料理とお酒が合っているのか否かの判断さえ普通の人にはつかないもの。それなのに「食中酒にふさわしい」などと語ってもしかたない。
 テロワールシリーズのひとつは琵琶湖名産もろこを焼いたものに、もうひとつは愛知川すっぽんにぴったり。もちろん想定どおりです。お酒を入れ替えるととんでもない味になります。同じ造り、同じ酒米でも、です。杜氏も「料理と合わせると、お酒だけ飲んでいるときより違いが大きくなる」と。いったん意識して相性を探るようになり、相性の判別法を知ってしまうと、漫然と飲むことができなくなります。食中酒は難しいのです。よほどお酒の個性を理解していないと、料理を生かすお酒、お酒を生かす料理は選べません。それを無視して単に飲んでいるだけでは、アルコールを摂取しているだけで、マリアージュ芸術表現ではありません。
 それにしても、琵琶湖の魚の見事なこと!体長10センチ近い大きなもろこ(三年ものらしい)の味のパワー感。もろこがこんなにしっかりした味がある魚だとは!そして岩床なまずの刺身の清冽な味わいは衝撃的。普通はなまずは泥の中に住んでいるから泥臭いのですが、これは岩の上に住む特別ななまずです。地元の人しか知らないようなこうした偉大な食材が日本各地にはあるはずですね。なまずのじゅんじゅん(滋賀県の郷土料理です)ももちろん素晴らしいとはいえ、味わいがきれいすぎて、お酒に負けてしまう。松の司の味の特徴は噛み応えですから、牛肉のほうがいいと思い、追加で近江牛バラ肉のじゅんじゅんを頼みました。やはり牛肉のほうがパワーがありますし、噛んでいる時間が長い。これは「田中式」のお酒にぴったり。私にとって滋賀の食材といえば近江牛です。近江牛に合わない近江の酒など矛盾した存在だと思っています。その上で、牛肉だけではなくキノコやネギと一緒に食べることが重要になります。そうした時にはじめてじゅんじゅんの味は垂直的になり、垂直的なお酒の構造に合うようになるからです。
 いずれにせよ、滋賀の食べ物の多くは下半身の太さ、流速の遅さ、重心の低さ、パワー感(味が濃いというわけではなく、味のパワーが濃いといった感じ)を備えています。そこが分からないと、松の司の味の価値も分からない。土地の表現である以上は、料理も味も相似形をとってしかるべきなのです。こういった傾向は、へたすると野暮ったい味になります。軽くてさらっとしている味を上品と呼ぶのは簡単。重厚さやパワー感がありつつ上品な味を実現できてこそ、滋賀らしいと呼べるはずです。

松瀬酒造でのコンサルティング

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 松瀬酒造さんへの何度めかの訪問。仕込み前にすべき重要な事柄をお伝えしに行きました。
 それにしても、ずいぶんお酒の味が変わりました。最初に伺った時には正直、前途多難だと思いましたが、こんなにすぐに変化がみられるとは自分でも驚きです。松瀬社長と石田杜氏のフレキシブルな感性、技術力、そして行動力に感謝します。
 ひとつ大問題は、せっかく作り上げた野心的な作品が販売されていないことです。これを読まれた方が蔵に行っても飲めるかどうか。純粋に実験作なのです。以前、日本橋浜町ワインサロンでお出しした「田中式」純米大吟醸もそう。講座にご参加の方々は皆絶賛されていたし、私も手前味噌ながら傑作だと思っていますが、非売品。ある意味、しかたありません。通常の日本酒評価基準では評価しようのない個性だからです。これを伝えるには相当な努力が必要です。当たり前ですが、製造と販売は車の両輪。プロダクトアウト型商品は伝える言葉がなければ売れません。日本酒の場合、誰がどこでどのような言葉を発すればいいのでしょう?この問題は次のテーマです。
 恒例の比較試飲。現在“流行”の売れている希少銘柄が集められており、蔵の皆さんと一緒に私も意見を言い合います。前回は十四代の天才的なディティール感の描写と隙のない(しかし空気感のある)全方位的な構成美に改めて感銘を受けましたが、今回は20代半ばの若手杜氏、田中祐一さんが造る話題の新潟のお酒、加茂錦「荷札酒」の軽やかな上昇力、細かく大量の味の粒子がおりなすしなやかで繊細な構成、静かなダイナミズム、広がり、垂直性、前後感、気品に感激しました。
 松瀬酒造さんの「田中式」のお酒は真ん中のハーフボトル。伝統の地場品種、渡船の個性が生かされ、逞しさや高密度感や太いリズム感が、滋賀県らしくていい。これだけは他のお酒とはまったく別の世界で、似たものを挙げるなら、往年のマルセル・ダイス。圧倒的なエネルギー感と立体感。アルザスが自給自足的スタティックバランスの美学を求める産地ではなく、異なった力のぶつかり合いが生み出すダイナミズムが魅力の産地だと思う人なら、滋賀もまたアルザス的なのだと、個人的には思っています。質量感のある要素が口中のあちこちにぶつかりながら上昇していき頭頂を目指して収束していく様子と、ずしんと太い骨格が根を下ろす様子がいいと思います。しかし、それを「いい」とするための前提は何か。その目的意識と価値観が生産者から消費者に至るまで共有されていなければ、理解はされるわけもありません。
 本来、技術とは、目的・価値観・美意識の実現のためにあるのですが、日本酒の場合、そこが明確にされず、ひたすら醸造学的欠陥を除去することを目指しているような気がします。私がしつこく言っていたのは、欠点を削るのではなく長所を伸ばせ、過剰なところを切るのではなく不足しているところを補え、ということ。そうしなければ、よくある日本酒のように、小さくまとまったつまらない味になります。では何が欠けているのかをどういう視点から認識することができるのか。その認識方法をお伝えしていたのです。
 以前から提案していた「テロワール・シリーズ」の最初の作品が出来上がっていたので、そのふたつも試飲しました。これは単一クリマ酒です。使用米が現状で正しいとは思えませんが、それでも結果としてはいい感じ。いかにも原料米の田んぼらしい味がしています。しかし世界中の誰が、滋賀県竜王町各地の田んぼの「らしさ」を知っているでしょうか?ワインの場合、ひとつの絶対的価値基準はその畑らしさです。それが共有されているから、結果としてのワインのよしあしが判断されます。このようなお酒は造るのはむしろ簡単ですが、伝えるのが恐ろしく難しい。美味しいかまずいか、好きか嫌いかではなく、絵と同じように、「りんごを描く」と言って描いた絵が、結果がりんごらしいか、それともみかんに見えてしまうかがまず問われねばなりません。しかしりんごを見たことがない人に、この問いは可能でしょうか。では皆さんが「シャンベルタンらしい」と言う場合、全員がシャンベルタンの畑に行ったことがあるのでしょうか。そんなことはありません。それなのに「シャンベルタンらしい」と言えるし、それで通じます。なぜでしょう?よく考えてほしい点です。
 ああ、それにしても、こういったことを広く議論できる場が欲しい。

2018.08.04

ジャパン・ワイン・チャレンジ・ディナー

 ジャパンワインチャレンジのあと、高円宮妃殿下をお招きして、虎ノ門のホテル、アンダーズでのディナー。海外からの招聘審査員と共に私も参加させていただきました。
 妃殿下は私の斜め前に座られておられたので、いろいろなお話を伺うことができました。妃殿下の博学と鋭い分析力と知的なユーモアのセンスは既によく知られているところですが、今回直接お話させていただき、改めて感服いたしました。妃殿下は日本酒についてもお話されておられました。いくつかかいつまんでご紹介させていただくなら、
1、日本酒のバックラベルにはもっと知識欲を充足させるための情報を入れるべき。日本人同士なら雰囲気で飲んでおわりだろうが、西洋諸国ではお酒は知的な会話のためのメディウムであり、その会話のもととなる情報がなければおもしろいとは思われない。
2、英語の情報がもっと欲しい。
3、外国人はいったいどの日本酒を何と一緒に食べるべきなのか、まったく知らない。英語版のバックラベルにはそのことを明記してほしい。
4、日本酒は米作を基礎とする日本文化の根幹のひとつであって、神道とも、そして宮中祭祀とも深く結びついている。ワインがキリスト教と密接につながっているように、日本酒も神道と関係がある。これを忘れてはいけない。しかし神道は宗教ではなく信仰である。
5、大嘗会、新嘗祭には白酒・黒酒が献じられる。白酒は出来てすぐがおいしく、翌日にはすっぱくまずくなる。黒酒はむしろ翌日のほうがおいしい。
 1から4はもっともなお話で、我々は心して努力しなければいけないと思いました。5のお話は、皇室の方からしか聞くことができません。天皇陛下の祭祀のために特別に造られる白酒・黒酒の味など、我々には知る由もありません。
 日本酒に関するお話のあとは、天皇制・皇室制度についての会話。私もいろいろと意見を述べさせていただきました。おそれおおいことです。妃殿下の画期的なアイデアには感銘を受けました。「そうでしょう?法律的にも問題はないだろうし、お金もかからないし、どう考えてもこの案しかないと思うのですが、他に誰も言わない」。「是非宮内庁等に提案してください」。とはいえ具体的な内容はここで私が書くべきことではありえません。このような微妙な話をしてくださってありがたく思います。ちなみに私の先祖は江戸時代は京都御所で護衛の武士をしておりました。そのお役目は祖父の弟が戦前の昭和天皇の護衛役ともいえる近衛騎兵を務めさせていただくまで続いておりました。妃殿下は「これからもよろしくお願いします」と仰せられたので、「もちろんその覚悟でおります」と深くお辞儀をしました。
 

2018.07.31

インターナショナル酒チャレンジ

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 インターナショナル酒チャレンジが7月30日に汐留コンラッドホテルで行われました。昨年は酒蔵でのコンサルティングを通していろいろと日本酒について勉強させていただいたので、今年は審査員として参加することにしました。
 150本ほどブラインドで試飲しましたが、個人的な感想をかいつまんで述べるなら、
1、あまりに多くのお酒が不自然でエネルギーがない。
2、全体に立体感、垂直的構造、ミネラル感に欠け、つまりはぺたっとつぶれた味がする。重心が高くて水平的な形。
3、余韻が短い。
4、アルコールが目立つ。つまりアルコール以外の要素が少なく、力がないから、アルコールだけが浮く。
5、大吟醸・吟醸カテゴリーは特にひどい。純米は上記の問題が比較的少ない。
6、生酛・山廃はさらに上記の問題が少なく、酸に力があるために余韻が生き生きしている。私の高得点は結果としては生酛・山廃が多い。速醸ばかりの状況は味の点からすればひどすぎ。
7、純米でも吟醸カテゴリーは焦点が緩く、味が小さく、もっともやる気を感じることができず、ポジションが不明瞭。
 いったい日本酒は何を理想としているのだろうかが見えないし、たぶん誰も共通見解を持っていないし、さらには議論の場もない。今回もなみいる日本酒の専門家が別々に評点をつけるだけで議論がない。これはいかん。ジャパン・ワイン・チャレンジでは皆が議論できる機会があるし、共通見解を形成するための教育プログラムもある。もし可能なら、酒チャレンジも少し手直ししてもらわねばなりません。
 インターナショナル酒チャレンジでは、通常の利き酒用蛇の目おちょこと並んで、リーデルが新たに開発した純米酒グラスが並んでいました。これは170人ものメーカーや日本酒の専門家が8年かけて作り上げたものです。
 ふくよかで柔らかい味わいを強調するグラスだと思います。しかしこのグラスで飲むと、どの酒も似た味になってしまう。相当にキャラクターが強いグラスです。これだけ大きいボウルだと広がり感は出ますが、反面中心密度は低下し、構造が乏しくなります。またアルコールが目立ち、重心が上がってしまいます。その点では純米酒が大吟醸の性格に近づくと言えます。
 これは日本酒関係者の総意のグラスと言えますから、逆に、彼らが日本酒に何を求めているのかがよく分かります。正直言って、これが純米酒の純米酒らしさだと私が思うところのもの、つまり米の旨み、腰、ミネラル感、グー・ド・テロワールを表現するグラスには思えません。...
 ちょうどリーデルの社長が部屋に入ってきたので、私の感想を伝えました。以下アンギャル社長との会話です。
「このグラスはあなたのような通のためのものではない。一般消費者がどのお酒でも楽しめるようなエピキュリアン向けグラスなのであって、どのお酒でもあなたが言ったような味になることは意図されたものなのだ」。
「リーデルは今まで品種とテロワールを軸にグラス開発してきたのではないのか。だとすれば山田錦グラスを作るほうが筋が通る。大吟醸グラスを作り、今回純米酒グラスを作ったということは、お酒を製法で分類するということであり、ワインに譬えるならステンレス発酵グラスとコンクリートタンク発酵グラスを作るようなものだ」。
「これを作ったのはあくまで酒造メーカーを中心とする170人であって、我々は彼らの要望を製品化しただけで、リーデルが主体的に提案したものではない」。
「主体的に提案しないでは業界のリーダーとしての責任が果たせない」。
「我々はふたつのタイプの製品を作る。ひとつは我々の方からの提案型。そして依頼されて作る受託型。これは後者。日本酒は我々にとって外国のものであって、ワインと違って経験の蓄積がないから提案するには時期尚早だ」。
「しかしボルドーグラスとかキャンティグラスを作っているではないか。オーストリアからすれば彼らも外国だろう。1957年にリーデルがソムリエグラスを作った時には誰の要望も意見も聞かず、自分で創造したではないか。作ったあとに世の中がついてきた。これがあるべきリーダーシップだ」。
「そのうち自分たちからの提案グラスを作ります」。
 おちょこで飲んだほうが味に一体感が出ましたが、今度は側面が直線の器独特のボスっとした広がりのない味になる。どちらもおいしくないので、私は途中から、水のみ用として部屋に置いてあったリーデルOのような形をした(それより背が低くて最大口径部分が真ん中にある)グラスで飲みました。完璧とは言えないにせよ、ひとつひとつのお酒の違いがより明確になりましたし、広がり感と密度感のバランスもよい。ほんと、グラスはおもいしろいものです。
 いずれにせよ、今回の純米酒グラスは“テイスティンググラス”ではないことは分かりました。とすると、それが審査会場に並んでいるのはへんな話です。
 

2018.05.13

日本酒の講座

 今の日本酒がおいしいと思っている世の中の99・99%の方にとっては「バカのたわごと。無視」と言われるに違いないのですが、そうではない方(私も含む)にとっては楽しい内容の日本酒講座を開催しました。参加された方は皆さん、「衝撃的」、「目からうろこ」と言われていましたが、それは皆さんがワインファンでもあるからです。

 ワインファンが好きな日本酒というと、すぐに華やかな香りだとか、おしゃれなパッケージとか、スパークリングだとか、たわけた発想になりがちですが、私はそういう日本酒は好きではないばかりか、日本酒もワインもバカにしていると思っています。

 

 ワインにあって日本酒にないものは何か。そこをとことん考えなければいけません。最初にふたつの日本酒を出しました。ひとつは大変に人気・評価が高い、軟水・速醸の大吟醸。もうひとつは硬水・生酛・あまり精白していないタイプ。どちらも超有名なものです。普通なら、その造りの違いとか、香りの違いとかを鑑賞するのでしょうけれど、そんな話は誰でも知っていることです。ここで気づかねばならないのは、むしろ両者の共通点です。

 それは、腰高(安定性の欠如)、小さい、水平的(つまり垂直性の欠如)、静的、単調、ミネラル感の欠如、余韻が短い、気高さを感じない、アルコールが目立つ、という点です。正直、どうしようもないレベルの味です。なぜこんなものを皆褒めるのか。しかし日本酒ファンが指標とするのは新酒鑑評会での評価基準でしょう。それをもとにしていれば、上記の問題点は問題点とさえ認識されません。それが問題なのです。上記のようなワインがあるとすれば、それはよいワインでは絶対にありません。

 しかしワインと日本酒は違うのだから、同じように評価してはいけないのではないか、と言われるでしょう。まさか、です。口に入れるものでおいしいと思うようなものはすべて、しっかりしていて、大きく、垂直性があり、ダイナミックで、複雑で、ミネラリーで、余韻が長く、気品があり、アルコールだけが浮足だつことはありません。日本料理でも、まったく変わることはありません。ダメな日本の食材また日本料理は前段落のように表現できる料理、よい日本の食材またおいしい日本料理はこの段落のように表現できる料理です。おいしい豆腐はまずい豆腐より大きくて立体的でダイナミックでいろいろな味がして余韻が長いものです。必ずそうです。

よく日本酒は日本料理に一番合うと言いますし、皆そう信じていますが、私の経験では多くの場合は合いません。ひとつの指標を取り上げただけでも分かります。多くの日本酒は重心が高く、多くの日本料理は重心が低いからです。日本酒は日本的精神の象徴であるともいわれます。しかし私にとっての日本は、現状の日本酒のような矮小で脆弱で腰高な国ではありません。我々日本人はそういう国民ではありません。自らを去勢し、卑下してどうするのか。戦後GHQの洗脳いまだ解けず、と言われてもしかたありません。

 

次に同じ銘柄で生原酒で精米歩合が10%違うお酒の比較。その次に同じ銘柄の純米で無濾過生原酒と通常の加水火入れの比較。何が変わるのか、何が問題なのか、という考察です。どちらが好きかという話ではありません。米を磨くほど重心が上がり、質感が細かくなり、香りが繊細で軽やかになり、構造が不明瞭になり、火入れしてしまうとダイナミズムや複雑性や立体感や余韻が失われることを認識してほしかったからです。生原酒のほうがアルコール度数が高いのに、加水火入れのほうがアルコールが目立つのはどういうことか、と、実際にテイスティングしながら考えて欲しいと思いました。

 

 では、日本酒にどうすればワインと同じ、ないし世界のすべてのおいしい料理と同じ特性を持たせることができるか。誰も私が問題だと思うことを問題だと思っていないので、そのようなことを考えた人はいません。というわけで私が考えるしかないので考え、コンサルティングを依頼してくださった滋賀県『松の司』の石田敬三杜氏にアイデアをお伝えしました。

この蔵元の井戸水は「土系」の味で「岩系」要素が少ないので、何もしなければ、よく言えば柔らかくて重厚ですが、悪く言えば芯がなくてうっとうしいどよーんとした味になってしまいます。それはここだけの問題ではなく、琵琶湖の東南地区全般に言えることです。ですから近所の他の蔵元の純米吟醸生原酒をまずテイスティングして確認していただきました。重心が低いという点ではこの地区のお酒は独特の個性を持っており、それはプラスに考えられる点なのですが、他の多くの要素がダメです。

くっきりとした骨格、味のメリハリ、下方垂直性を出すには石灰岩が大事です。また上昇力や明るさを出すには水晶が大事です。このふたつはBD500BD501のように対になるものです。蔵じたいと水(またはお酒)に、このふたつの石(近くの山から拾ってきたもの)をある方法で使って処理します。

また垂直性と複雑性と大きさを出すためには、単一品種・単一精米歩合・単一酵母ではいけません。現在の日本酒の最大の問題はここです。そうするとひとつの味しかしません。ひとつの味がたくさんあれば、なんであれクドくなります。それは不自然です。そのような食べ物はありません。もともとクドいものを造っておいて、それを炭素ろ過して味を抜くなど、本末転倒の極みです。ですから複数品種、複数精米歩合、複数酵母にするべきです。

複数タンク仕込めばいいというものではありません。最終的なブレンド後の理想的な味を思い描き、原酒それぞれの役割を決めて、それに向かって要素を結合していきます。例えば、3種類の原酒を仕込むとします。それらは、1、華やかで軽やかで重心が高いお酒。2、腰が強く骨格がはっきりして芯のある味の重心が真ん中のお酒。3、柔らかい厚みと広がりがあり重心が低いお酒、です。すると1ならば、砂質土壌の圃場&吟吹雪&精米歩合35%・低温発酵・協会1801酵母の純米大吟醸、といった具体的な方法が見えてきます。2なら、礫質土壌&渡船2号&純米吟醸、3なら、粘土質土壌&山田錦&純米といった感じでしょう。

それらを、私が日ごろ言っている適切な方法でブレンドします。つまり、フィボナッチ数列、素数、ガウス曲線に従うことと、重心積層法で混ぜることです。ジェラール・ベルトランのクロ・ドラと同じです。

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講座の最後は、このような考えをもとに出来た、特別純米生から純米大吟醸生原酒までの3種類の特別な『松の司』を最後にテイスティング。それぞれ異なった個性を表現した上で、目的はきちんと果たせていたと思います。現在の大半の日本酒とは別世界の味です。ワインと同列に並べてまったく違和感がありません。重要な点なので繰り返しますが、田中式では純米大吟醸であっても精米歩合75%のお酒が少量含まれています。ブレンドの結果が最終的に50%以下になればいいのですから、途中までは麹も掛もさまざまな精米歩合です。ちなみにブレンド前の原酒4種類もテイスティングしていただきましたが、それぞれ単体は、まずくはないとはいえ、やはり普通の日本酒の域を出ません。正しいブレンドこそが要です。

お酒単体で飲んで普遍的な高品質にするのが前提だとしても、お酒は日本のそれぞれの地方・村の精神性・文化・味なのですから、産地のティピシティが表現されていなければいけません。滋賀県のお酒は滋賀県っぽい味がしなければいけない。ですからお出ししたお料理は小鮎の甘露煮と和牛のすき焼きです(他にもいろいろありましたが)。もちろんきちんと合いましたし、お料理をおいしくしてくれました。特に純米大吟醸は、このカテゴリーのお酒ですき焼きに合う例外的なお酒です。キメの細かさや華やぎと、低重心とパワーと構造を両立するのは、現在の常識的な造りでは不可能に近いと思います。

私の考え方やアイデアを取り入れ、完璧ともいえる技で実際のお酒に仕上げてくださった石田杜氏をはじめとする松瀬酒造の方々にはいくら感謝しても感謝し足りません。私としては、他の方々も田中式を採用してもらいたいと願っていますし、それが日本酒をもう一段階レベルアップする有効な手段だと信じています。